東京地方裁判所 昭和41年(行ウ)43号 判決 1968年7月31日
原告 興国人絹パルプ株式会社
被告 中央労働委員会
補助参加人 全国紙パルプ産業労働組合連合会 興国人絹パルプ労働組合八代支部
主文
一 中労委昭和三八年(不再)第一八号不当労働行為救済命令再審査申立事件について、被告が、昭和四一年三月一六日した命令は、これを取り消す。
二 原告の熊労委昭和三七年(不)第七号事件の初審命令の取消を求める訴の部分は、これを却下する。
三 訴訟費用は、原被告間において生じた分を被告の負担とし、参加によつて生じた分を、補助参加人の負担とする。
申立
原告の求めた裁判
(一) 被告が再審査申立人興国人絹パルプ株式会社・再審査被申立人全国紙パルプ産業労働組合連合会興国人絹パルプ労働組合八代支部間の中労委昭和三八年(不再)第一八号不当労働行為事件について、昭和四一年三月一六日付で云い渡した命令主文、および被告が維持した熊労委昭和三七年(不)第七号事件の初審命令は、これを取り消す。
(二) 訴訟費用は、被告の負担とする。
被告の求めた裁判
(一) 原告の請求を棄却する。
(二) 訴訟費用は、原告の負担とする。
主張
原告主張の請求原因
一 補助参加人全国紙パルプ産業労働組合連合会興国人絹パルプ労働組合八代支部(以下単に「参加人組合」という。)は、昭和三七年六月一四日夜原告会社原液課長相川宏遠方における右相川と参加人組合員中川ヤツノ(事件当時の旧姓釜賀、以下「釜賀」という。)間の話合を、不当労働行為であるという理由で、熊本地方労働委員会(以下単に「地労委」という。)に対して救済命令の申立をし(熊労委昭和三七年(不)第七号事件)、地労委は、昭和三八年五月一八日、参加人組合の申立を理由があるものと認めて、別紙(一)のような初審命令を発した。
二 原告会社は、その命令を不服として被告委員会に対して再審査の申立をした(中労委昭和三八年(不再)第一八号事件)けれども、被告委員会は、昭和四一年三月一六日再審査申立棄却の命令を発し、その命令書は、同年四月二日原告会社に到達した。
三 被告委員会の命令の理由は、別紙(二)の命令書写記載のとおりである。
四 しかしながら、右命令には、事実の認定ならびに法律上の判断を誤つた違法がある。
その理由は、次に述べるとおりである。
(一) 原告会社と組合について
被告命令第一、1当事者の項(1)・(2)の事実は認める。即ち、原告は肩書地に本店を置き、大阪市に支店を、富山市・佐伯市・八代市にそれぞれ支社を、吉原市に工場を有する資本金三一億二千万円の株式会社であつて、パルプ・紙・化繊などの製造販売を主たる業務としている。昭和三七年当時その従業員の総数は約三、四〇〇名で、そのうち非組合員は約二〇〇名であつた。そして非組合員を除く従業員の内訳は本社(大阪支店を含む)二一七名(非組合員は八〇名)、富山工場六六八名(非組合員は三五名)、佐伯工場六六五名(非組合員は三〇名)八代工場一、三〇八名(非組合員は三〇名)富士工場三三八名(非組合員は一五名)である(昭和三七年一一月、会社は富山、佐伯、八代の各工場の名称を廃し、支社と呼称を変更した。)。これらの従業員は、はじめ各事業場毎に労働組合を結成していたが、昭和二二年二月興国人絹パルプ労働組合(以下「興人労組」という。)という単一組織の労働組合を結成し、各事業場毎に支部を設けた。そして、昭和三四年三月、興人労組の全支部が全国紙パルプ産業労働組合連合会(以下「紙パ労連」ともいう。)に加盟したため、その名称を冠することとなつた。
(二) 分裂の経過
被告命令第一、3(1)・(2)・(3)の事実は概ね認める。但し(3)の事実中、会社声明は昭和三七年六月一一日に出されている。なお、正確には次のとおりである。
昭和三七年春、興人労組は会社に対し、一律六、〇〇〇円のベース・アツプを含む八、八五四円(会社の計算によれば一〇、九二〇円となる。)の賃上げ、最低賃金制の確立、労働協約の改訂、旅費規則の改正、各種協定書の改訂、不当解雇撤回などの諸要求を行ない(以下「春斗要求」または「春斗」ということがある。)これらの要求につき労使は同年三月二日から三月二七日、会社が第一次回答を行うに至るまで前後七回にわたり団交を行つた。ところが興人労組は会社の第一次回答を不満として、翌日の三月二八日に全面二四時間のストライキを、引きつづき同年四月六日、同月一〇日と紙パ労連のスケジユール斗争に参加し、各全面二四時間のストライキを、その後会社は興人労組と同月一二日、二〇日、二五日、二八日、同年五月九日と団交をもつたが、両者の主張は平行線を辿り妥協点を見出すことができず、五月一〇日以降労使の交渉は全くゆきづまり決裂状態となつた。そして、興人労組は、全面二四時間のストライキ、全面四八時間のストライキ、五月一八日以降無期限ストライキに突入し、話合いによる解決の途は全く閉ざされるに至つたのである。この間、興人労組の組合員は賃上げ要求のような経済斗争において、会社と話合をもつことなく、徒らに力により解決を計ろうとする興人労組の斗争至上主義的方針に反対し、昭和三七年六月一〇日興人労組富山支部は支部大会を開催し、興人労組から脱退することを決議し、同支部組合員七名を除く全員が新組合を結成これに加入するに至つた。また翌一一日には本社支部、富士支部がそれぞれ大会を開催し、興人労組から脱退することを決議し、いずれも新組合を結成し支部組合員全員がこれに加入した。佐伯支部においても、興人労組の運動方針に反対する大部分の組合員が支部大会の開催を要求したが、支部執行部が組合規約に反し、大会開催に応じなかつたため、その大部分が興人労組佐伯支部を脱退し、新組合を結成し、同月一二日には八代支部においても、過半数以上の組合員がかねてより支部執行部に対し、支部大会開催の要求をしていたが、これが容れられなかつたため、約一、〇〇〇名が脱退し、その内過半数に相当する約七〇〇名の支部組合員が興国人絹パルプ八代労働組合(以下新労という)を結成した。そして、当日新労加入希望者の数も約三〇〇名に及んでいた。そして、六月一五、六日頃に右加入希望者を正式に加入させ、新労組合員の構成は一、〇〇〇名を超え、参加人組合(興人労組八代支部)(以下「旧労」ということもある。)の組合員の数は八代工場従業員数の四分の一以下となつたのである。
(三) 八代工場における原告会社と新労との交渉について
被告命令第一、3(4)の事実も認める。
前記のように、六月一二日参加人組合の組合員の大部分は組合を脱退して新労を結成すると同時に、原告会社に対し、団体交渉の申し入れを行い、その結果会社と新労の間に次のような協定書、覚書が締結されるに至つた。
協定書
興国人絹パルプ株式会社八代工場(以下会社という)と興国人絹パルプ八代労働組合(以下組合という)とは次の通り協定する。
記
一、会社は組合を承認する。
二、会社と組合は会社の再建と組合員の生活の安定と向上を計るため互に相手の権利と人格を尊重し協力する。
三、会社と組合は可及的速みやかに就労し生産を再開するよう努力する。
四、労働協約については昭和三六年三月二一日付興国人絹パルプ株式会社と興国人絹パルプ労働組合との間に締結された労働協約をこの協定成立の日より三ケ月間準用する。但し準用期間中に新たな労働協約が締結された場合はこの限りではない。
五、組合要求のベース・アツプ、夏季一時金、立上り賃金については速やかに交渉する。
昭和三七年六月一二日
興国人絹パルプ株式会社八代工場
取締役工場長 田川知昭<印>
興国人絹パルプ八代労働組合
執行委員長 西尾信義<印>
覚書
会社と組合は昭和三七年六月一二日付協定書第三条に関し次の通り協定する。
記
一、就労は昭和三七年六月一三日午前六時よりとする。
二、前項の就労が不可抗力によりできない場合は就労のできない日数に応じ、基準賃金、役付給および住宅給合計額を保障する。
昭和三七年六月一二日
興国人絹パルプ株式会社八代工場
取締役工場長 田川知昭<印>
興国人絹パルプ八代労働組合
執行委員長 西尾信義<印>
その席上、新労は原告会社に対し、分裂するに至つた経緯の説明と、現在、新労の構成員が約七〇〇余名存すること、そのほかにすでに旧労を脱退し、新労に加入したい旨意思表示を行つているものが約三〇〇名いること、これらの新労加入希望者については早急に資格審査を行い、新労に加入せしめる意思をもつているので、近く新労の構成員は一、〇〇〇名を突破することとなる旨説明したのである。右新労の説明をきき原告会社は新労組合員のみで充分生産を再開し得ると考え直ちに生産再開の計画をたてた。この計画は再開準備に二日間をあてること、その後四分の一生産を開始し逐次二分の一と生産量をあげ、六月二〇日頃よりフル生産を行うというものであつた。そして、原告会社はフル生産に入る場合、部課長を現場に投入することとしたが女子従業員は一人も生産再開要員としてあてにしていなかつたのである。
ところで、新労は前記協定にもとずき、同月一三日から生産再開のため入構就労したが、旧労とのトラブルを避けるため工場内に籠城することになつた。一方、参加人組合は六月一二日午後九時頃、会社に対し無期限ストライキを解く旨通告するとともに翌一三日より就労したいから、ロツクアウトを解いてほしい旨申入れてきた。しかし、旧労はこのような申入れをしたにもかかわらず依然として原告会社に対する春斗要求を維持し斗争態勢をとかなかつたばかりか六月一三日、新労就労にあたり、未然にトラブルを防止するため正門附近に居た非組合員を罵倒しストを解きながら組合員を統制して、新労の就労を妨害するなどの行動にでたのである。また一三日、夕刻帰宅しようとする女子新労組合員を帰宅途上で捉らえ、これに罵詈、雑言をあびせたりした。すなわち、原告会社はこのような旧労の言動に鑑み「ストを解いた」という旧労の通告を額面通りに受けとるわけにはいかず、旧労に対しロツクアウトをつづけ職場内でのトラブルが発生しない確約を得た後、ロツクアウトを解き就労させるとの見解を明らかにしたのである。そして、原告会社は新旧両労組と三者会談を持ち、構内における秩序が保たれるという保証、すなわち、その旨の三者協定(中労委における乙第一四号証)を締結した上六月一六日、旧労に対するロツクアウトを解いた次第である。しかし、原告会社はなお慎重を期して同月一六日から一九日までの間一定時間職場において新旧両組合員の懇談会を開催させ、徐々に両者の感情的対立を緩和させ、同月二〇日から旧労組合員を就労させることとしたのである(旧労組合員に対する賃金は一六日より支払つた)。そしてこのような配慮の結果、分裂にあたり、通常みられる両組合員間の暴力沙汰を未然に回避することができたのであつた。一般から、原告会社における組合分裂はまことにめずらしい「ケース」であるという評価を受けたのも右のような会社の配慮があつたからなのである。
なお、六月一五日頃、新労は六月一二日分裂直後において新労加入を表明していた約三〇〇名についての資格審査もほぼ了り、同日新労組合員の構成員は一、〇〇〇名を超えるに至つた。そして、その後も斗争至上的態度を改めない参加人組合の一部組合幹部に対する批判は徐々にではあるが、その所属する組合員の減少となつてあらわれ昭和四一年四月現在の参加人組合の組合員の数は一〇〇名足らずとなつている。
ところで、参加人組合が分裂して間もない昭和三七年六月一四日、原液課長であつた、相川宏遠が、同年二月五日から会社のアルバイトとして入社し、同年四月一日、正式採用となり、参加人組合の組合員となつた釜賀ヤツノを自宅において面接するという事件がおきたのである。
(四) 相川課長の職務権限
被告命令の第一、2(2)の事実は概ねこれを認める。しかし、相川の職務権限は被告の主張するように課員の人事に関する権限のみであつたわけではない。原液課長として相川は生産計画に基づき工程別生産実施計画を立案検討し、その実施を管理すること、作業標準、設備などの改善を部長に提案すること、主管業務に関する各種日報の作成など八項目に亘る業務をもつていた。そして、工場各課長に共通する業務としては、業務管理、組織管理、人事管理、財産管理などに関する事項のほか、予算、報告諸手続、官公庁、諸団体との連絡接渉等に関する事項などがあつた。これらの事実から明らかなように、相川の職務権限は、すこぶる多岐に亘つており、人事管理はその一部をしめるにすぎなかつた。たしかに、相川は被告の主張する人事管理に関する権限を有していたが、それは課長が潜在的にもつている権限であつて、現実における課長の人事権は課内従業員の第二次査定を行うことがその主たるものだつたのである。課長は三級職以下の課内配転をする権限を有するといつてもこのような権限を行使するのは病欠者がでた場合とか、昇進したため、その職場に誰かを補充する必要があるといつた場合に限定され、いずれも生産面から要請される配転であつて、被告の主張するような大幅な権限をもつているわけではない。また、同所において被告は、相川課長が八代工場在職中八代支部との団交に一〇回ばかり出席した旨主張している。しかし、これも正確ではない。たしかに相川課長は八代工場に原液課長として在職していた三年有余の間に一〇回程支部団交に出席している。しかし、相川が右団交に出席したのは、いわゆる団交要員として出席したわけではない。議題がたまたま原液関係の技術的問題にまで発展したとき労使双方の要請、もしくは、会社の要請により組合もこれを承知の上出席し説明したことがあるにすぎないのである。したがつて、団交に工場交渉委員として出席したという被告主張は誤りである。
(五) 釜賀が相川課長宅で一夜を過すに至つた経緯
相川課長はなにゆえ入社後まもない釜賀を相川宅において一夜を過ごさせるようなことをしたのであるか、この間の経緯を知るには相川課長と釜賀ヤツノとの関係および当夜どのような状況で推移したかを知る必要がある。
(1) 相川課長と釜賀ヤツノとの関係について
被告命令第一、2(1)の事実は認める。但し、正確には次に述べるとおりである。
(イ) 釜賀ヤツノの採用までの経緯について
釜賀ヤツノは、昭和三七年三月八代高校を卒業し、同年二月一五日アルバイトとして採用され、同年四月一日原告会社の正式社員となり、同時に参加人組合の組合員となつたものである。
ところで、原告会社は高校卒以上の従業員の不足を定期採用によつて補つており、その定期採用は、卒業の前年に採用試験を行い合否を決定する慣行であつた。右釜賀は高校卒業予定者であり、昭和三六年、秋、原告会社は昭和三七年三月高校卒業予定者に対し採用試験を行つた。同女もこれに応募したが、その成績が悪かつたため原告会社は同女を不採用と決定し、その旨本人に通知した。その後原告会社八代工場(以下八代工場という)においては、当初予想していた以上に女子従業員が退職し、三七年一月上旬原告会社は更に、一〇名前後の女子従業員を補充採用する必要に迫られたばかりでなく、そのうち三名は業務の都合上早急に採用し、卒業を待たず「アルバイト」という形で職場に配置する必要があることが明らかとなつた。そこで、原告会社はこの三名については新たに採用試験を行うことなく、定期採用試験を受け不採用ときまつた就職希望者の中から選ぶこととし、選考委員会において津国・片岡・松本の三名を選定した。そこで、昭和三七年一月上旬に三名の在学している八代高校に、その旨、説明し、右三名を原告会社において採用することにしたい。また、原告会社はこのほか七名を補充採用したいので、適当な卒業予定者を推薦して欲しい旨申出たのである。
ところが、同月中旬学校側から右三名のうち松本は既に就職先が決定しているので、他の者に振替えて欲しい旨の連絡があり原告会社としては、更に、一名の追加補充が必要となつたわけである。たまたま、その頃、原告会社の原液課長である相川宏遠から原告会社に対し、「実は原液課員の江後譲からその義妹である釜賀ヤツノを補充採用して欲しい旨の依頼があり、自分も本人にあつてみたところ、印象もよいし出来るなら同女を採用して貰えないか」という意味の申出があつた。
原告会社は、一月二四日補充採用に関する選考委員会において右相川の申出にもとずき、釜賀を補充採用すべきか否か討議した結果、a当人の前回の採用試験の成績がそれほど悪くなかつたこと。b原液課員江後譲の義妹であること。c特に相川課長の推薦があることなどが報告され、相川課長の推薦があるならばということで、釜賀を採用することに内定した。
そこで、一月二七日原告会社は八代高校に対し同月二六日付採用内定通知書を手交した(現実には同校教諭小田俊一にこれを交付している。)。一月三〇日小田教諭は右三名を伴い八代工場に挨拶に来たが、その際、学校として三名については三七年二月五日から原告会社がアルバイトとして勤務させても差支えない旨の見解が示された。
このような経過から、原告会社は釜賀を採用したのであるが、採用されたのは、一に相川課長の前記推薦があつたからなのである。また、釜賀はアルバイトとして採用された後、原液課勤務となつたが、同課に勤務するについても相川課長が特段の配慮を払つている。すなわち、その頃原液課工務室には新中卒者の書記一名がおり、原告会社は当時現場書記はすべて高校卒に切り換える方針であつたところ、相川原液課長から、「原液課工務室書記を高校卒女子に変えて欲しい。釜賀は義兄も同じ職場にいるし、自分も推薦した関係上手許において面倒をみてゆきたいから原液課に配属して欲しい。」旨の申出があり、原告会社は現場書記に対する右方針を実現するため、原液課長の要望を容れ、釜賀ヤツノを原液課工務室に配属したのである。
前述したように、相川課長は釜賀採用にあたり大きな役割を果したばかりでなく、その所属決定に関しても深く関与していたのである。こうして、釜賀は同年四月一日正式社員として採用せられ、原液課工務室書記として勤務することになつた。
(ロ) 相川課長が釜賀の保証人となつた経緯について
昭和三七年四月四日、相川課長が自宅にいたところ、釜賀とその義兄江後譲の両名が来訪し、その際同人らから保証人に関する話が持ちだされ「二人の保証人が必要なのだが、課長に保証人になつて貰いたい。」という依頼を受けたのである。
相川としては補充採用の際にも同女の就職に関し便宜を計つたばかりでなく、その所属を決めるに当つてもこれに積極的に関与してきた関係上、保証人になることを快諾し、正式に同女の保証人となり、同女の身上に関する一切の責任を負うこととなつたのである。なお、相川課長は同女の保証人になることについて、予め保証人になつてもよいなど述べたことはなかつたが、結果的に保証人になつたことにより、自然同女の勤務状況その他について課内一般従業員より、より深い関心を抱くに至つたのである。また、釜賀も右相川のそのような配慮を感じてこれに応えていたのである。事実、釜賀は入社して三・四ケ月の間に数回、相川宅を訪れ、相川が在宅していないときも相川の妻とアルバム等をみて、歓談していつたことがあるのである。釜賀が、相川のみならず、その家族とも親交をもつに至つた事実は、釜賀と相川家の関係が通常の社員対課長の範囲をでていたことを物語るものというべきである。
(2) 六月一四日の状況について
(イ) 釜賀ヤツノが相川宅を訪れるに至つた経緯
すでにのべたように、昭和三七年六月一二日、従来の参加人組合は分裂して新組合が結成された。
そして、新労は分裂当初から全従業員の過半数を占め、分裂当日新労加入の意思を表明していた者を含めればすでに一、〇〇〇名を超えていたのである。そして、その後の新労への加入状況からみれば、当日すでに新旧両労組員の色分けは決定しており、新旧両労組とも組合勢力の維持・増大の働きかけは行わなかつた。
右相川は同年六月一二日組合が分裂してから従来組合員の間にあつた対立感情がさらに激化しやしないかとか新労が就労し生産を再開するにどのように対処するかなどもろもろの事態に備え会社に宿泊していたが、翌一三日にも新労員が無血入場に成功したため、生産再開に関する諸準備を行う必要があり同日もまた工場内に宿泊することとなつた。
その間、相川は殆んど徹夜で右業務に従事していたが、一応目鼻もついたので、同月一四日は自宅に帰宅する予定であつた。たまたま、同日午後同人の妻から電話があり「今日釜賀さんが江後さんとくるらしいけれど、今日帰つてきますか。」と尋ねてきたので、同人は「今日は非番だから帰る。」旨答えたのである。当時、相川は、釜賀が自分に会いたい旨いつてきたのは前述したように、新労組合員の数が分裂当初から過半数を占め、当日すでに加入希望者を含め一、〇〇〇名を超えていたこと、新労側でこれらの者の資格審査を行い、連日一〇〇名程度の割で正式に新労に加入させていたこと、とくに、釜賀が勤務していた工務室では従業員二〇名のうち釜賀一人が旧労に残つていたこと、工務室の従業員二〇名中釜賀のみが女子であつたこと、釜賀は昭和三七年四月正式社員となり組合に加入したが、分裂まで二ケ月しか経過していないこと、しかも、その間殆んど部分スト、全面スト、無期限スト等の争議が行われ組合員になつてから勤務した期間も一月余りしかなかつたこと、新旧両組合間に感情的対立があつたこと、当時、新労は既に就労しており、会社は旧労に対しロツクアウト中であつたが旧労から会社に対し無期限ストを解く旨連絡があり、旧労も近日中に就労することが予測されていたことなどから、恐らく釜賀は職場にでた際どうすればよいか、保証人である相川に相談するため来訪するのではないかと考えたのである。そして、相川は同日午後六時頃帰宅し、夕食を済ませ釜賀の来るのを待つていたが、なかなか来ないので、二日前からの疲れもでて横になつていたところ、同日午後七時過ぎ原液課員の沖田が、たまたま相川が会社に忘れてきた万年筆入りケースを「新労に用事があつて外出したのだが、万年筆ケースが机の上に置いてあつたのでついでに届けに来た」といつて訪ねてきたのである。その際、沖田が右相川に対し「大分疲れておられますね。」といい、これに相川が「今日は早く寝ようと思うのだけれど、実は釜賀さんがうちに来ることになつているのだ。」と答えたところ、相川のつかれた様子をみかねた沖田が「私は単車で来ていますから行つてきましよう。」ということから、沖田の釜賀宅訪問になつたのである。こうして、沖田は課長宅から単車で同日午後八時前頃釜賀宅に到達したが同女の在否をたずねたところ不在だつたので引き返そうとしたが、あるいは、義兄の江後宅に行つているのではないかと考え、再び釜賀宅に引返し、同女の母から江後宅への道順を聞いているところへ釜賀が帰り、沖田と釜賀との対談が始まるのである。
すなわち、沖田は釜賀に対し「どこに行つとつたか」とか、「今日は課長のうちに行くようになつとつたんじやないか、課長はあんたがくるといつて待つていましたよ。」と話したところ、同女は積極的に「私も課長と合つて話したいし、工務室の人とも話したいから出掛けましよう」といつて、釜賀は自転車で相川を訪れようとしたのである。そして、釜賀は沖田の「課長のうちにいくようになつとつたんじやあないか。」という問に対しそれに相応した答えさえしているのである。ともあれ、両名はつれだつて相川宅に向け出発したが、その途中にある雑貨店附近に到着した際、釜賀は沖田に対し「電話してきます」といつて店内に入りでてきてから「沖田さん今日は行かんでいいそうですもん」と話したのである。沖田は釜賀が電話するといつたので課長に連絡し課長がこなくともよいといつたので「行かなくてもよくなつた」といつたのだろうと考えたのである(当時沖田は課長宅にある電話が市外から直接かけられない工場構内電話であるということは潜在的に知つていたが、釜賀の行かなくてよくなつたという答を聞いて当然課長と連絡がとれたにちがいないと考えたのである。)。
ともあれ、沖田は釜賀が「行かなくともよくなつた」ということばを信じ、直ちに帰ろうとしたところ釜賀から沖田に対し「話をしよう」と誘われ、その雑貨店前で約一時間程話合つている。そして、当時沖田が釜賀の電話により課長と釜賀との間に「今日は行かなくてもいい」という了解ができたと考えたことは、沖田が課長に対し自主的に釜賀を呼んでくるといつて釜賀宅に来ながら前記のように約一時間も雑談していたという事実によつて充分推測し得るところである。若し沖田が課長と釜賀との間に了解がついていないと考えたならば、沖田は「釜賀は今日はこない」ということを二晩も一睡もせず疲れきつている相川課長に直ちに報告したに相違ないからである。一方このような事情を知らない相川は、「様子をみてくる」といつて出掛けた沖田からは何の連絡もないし、そうかといつて釜賀も訪ねては来ず、相川自身も疲れきつており、釜賀にも会わず早く寝みたいという気持になつたが、常日頃から何かと世話をやいてきた釜賀から「会いたい」という申込を受けていることや、前述したように近いうちに勤務しなければならない釜賀の悩みを考えると、なんとか相談にのつてやりたいという気持が強くなり、相川に相談をしたいといつているくらいなら、家族の者にも相談しているに違いない。同女の家族とはかねて面識があるし、ともかく、一応家族の人達とだけでも会つてみようと思い、同日午後八時四五分頃釜賀宅を訪問したのである。そのときすでに同女の母親は寝んでおり、同女の兄嫁と挨拶しているところへ実兄も帰つてきたので、釜賀の所在を尋ねたところ「課長さんの家へゆくといつて会社の人と出かけましたけれど、何か今近所の店の前で話をしているようです。」と答えた。そこで、相川は二、三言葉を交わした後、教えられた店に出かけていつたのである。相川が店の前へゆくと沖田と釜賀が何か話をしていたので、相川は釜賀に対し「私に何か話があるらしいけれど、話があるならこんなところで話す訳にはゆかないから家に行つて話をしよう」といつたところ釜賀は素直に「ハイ」と返事をして自転車を店に預け相川とともに車に乗り、相川宅に赴いたのである。
(ロ) 相川宅における状況
(a) 相川と釜賀の対談内容
前述したような経緯で同日午後九時一〇分過ぎ頃釜賀は相川宅に到達したが、相川は釜賀に対し同日午後の電話を考えながら「何か話があるんだろう」と訊ねたが釜賀は別に返事もしなかつたので「話があるなら遠慮なしに云つてくれ、保証人でもあるのだから悩み事があるなら相談にのつて上げたい」旨話したところ、同女は別に相川に対し悩み事を打ち明けるでもなく、無言であつたので相川としては戸惑つた感が深かつたのである。しかし、初めから悩み事を打明けるようなことは、よくよくの場合であると考え、世間話などをし、近況を話合つたりしているうち、同女は突然相川に対し「こういうふうに分裂したのは一部の出世主義者というのですか、そういう人達が動き回つたのでこんなことになつた」とか「分裂したのは会社の策動で起つたのだ」といいだしたので、相川としては、はじめて同女の相談が何か職場での心配事ではなくて組合の分裂について悩んでいたことを知つたのである。このような釜賀の問に対し、相川は別に心構えもなく同女のいう出世主義者がどういう人達であるかもわからなかつたので、同女に対し「私自身も出世主義者とはどういう人かわからぬので具体例を示して下さい。」と質問したり「組合が分裂したのはやむにやまれず分裂せざるを得なかつたのではないか。」とか「会社が分裂を策動したと云うようなことはない。」旨答えたのである。そして同女から一三日就労した女子従業員を原告会社が四時半の終業時にバスで自宅に送り届けたことについて「どこかへ連れていつたのではないか。」といつた質問をしたので相川は「自宅に送り届けたのは女子でもあり、旧労との間にトラブルが起きるのではないかと考え、バスで送らせたのではないか。」と述べ原告会社の立場を説明したのである。
そして、更に同女から相川に対し、「保安要員としてでていた際、工務室にいた人達が署名運動をしていたのではないか。」という質問に対し同女の誤解を解くために種々説明しているのである。そして、なお、釜賀は相川に対し、執拗にも「新労ができる直前バスを借り切つて鶴の湯温泉に行つている。」とか、「会社が金をばらまいて介入したのではないか。」とか、「分裂した一部の人達は自分がよくなろうがためにやつているのではないか。」などの質問を浴せかけ、相川が原告会社はそのようなことを行つたことはないという弁明に全く耳を藉さず、あたかも、「会社が新労幹部に金を与えて買収し、新労幹部が会社の意にしたがつて組合を分裂させた。」「彼らは会社からよく思われるようにと思つて新労をつくつたのだ。」というようなことを一方的に断定し繰り返し、繰り返し執拗に主張してやまなかつたのである。
このような釜賀の態度、すなわち、相川の弁明には一顧だも与えず一方的に会社を敵視する態度には、相川は会社に正式入社して二ケ月位しかたつていないもののことばとしてはあまりにも一方的であり、なんとか公平な態度で物事を判断させる必要があると考えたのである。ことに相川は六月一三日旧労に所属する碇執行委員から「会社のあの犬ども」と罵倒されており、旧労幹部に対する不信の念も手伝い、釜賀の考えの誤りであることをただすためには釜賀の信頼している旧労幹部の非をとりあげる以外にはないと考え、碇、副島、北山らについて「碇、副島は現場に復帰しても仕事をしないで、ぶらぶらしているではないか、北山さんも質屋に通い私生活は乱れているのではないか」と会社内においてだれもが知つている事実を指摘し、釜賀の一方的理解の誤りであることを正そうとしたのである。相川は釜賀が非常に不公平な物の見方をしていること、また感情的になつており、このような態度で職場に入れば必ず気拙い思いをするに違いないという危惧の念から、釜賀の将来を考え「学校を出たばかりで会社についての経験もないし、組合員としても組合に所属してから二ケ月やつとだろうからそのへんもわからないだろうし、あんまりつきつめて考えるのは考えてもわからないんじやないか。」とか、「結局、今後、何日かすると現場にはいれるようになるんだから、そういつた場合に現場の人達と何か感情的な面でうまくいかない。それから女の人達は職場の女の人同志仕事の面でも、その他私的な交際面でも、そういつた気拙い思いをするんではないか。」とか「私はあなたを入社以来見ているが非常に明るくつて、いい娘さんだと思つている。そういつたことで感情的なまづさからあなた自身が環境に左右されて暗い気持ちになるということを心配している。」という趣旨のことを二、三度繰り返えしたのである。このように、相川は新労に入れということとは全然関係なく、釜賀の態度、物の考え方をそのまま職場にもつていけば必らず同僚と感情的衝突があるに違いない。そのようにならないようにという配慮で、誠意をもつて話をしたのが真相である。
釜賀と相川との対談は午前零時過ぎまでつづけられたが、前述したように、釜賀の態度はむしろ詰問的であり、会社に対する憎しみを相川にぶつけるような態度に終始したのである。しかし、相川はこのような非礼極まる釜賀に対し、入社当時から現在に至る釜賀との因縁を考え、納得のいくよう説明してきたのである。相川は釜賀が年少であるとか、女子であるとか、旧労に所属しているとかいつた理由で釜賀に対し高飛車な態度で臨んだことはない。このことは同日午前零時頃氏名不詳の者から相川宅に「勤労の者だが釜賀君はいるか。」とその身分を偽つた電話があり、これに対し相川が、後日釜賀が誤解をうけないようにとの配慮から「いまいない」と答えたところ、これをとりあげた釜賀が「何故嘘をいつたのか」と相川を非難攻撃してやまなかつた態度によつても、当夜の相川と釜賀の応答がどのようなものであつたかをうかがいしることができるのである。相川は釜賀が在宅しているにもかかわらず、「いない。」と答えたことは、たしかに、釜賀のいうとおり嘘にちがいない。しかし、その氏名を偽つて電話をかけてくるような者に真実をいえば、後日釜賀がいかなる誤解をうけるかわからない。相川がそのような配慮の下に行動したことは明らかであり、かつそれが常識でもあるだろう。釜賀と対談中の相川の態度が威圧的でなかつたことは、右釜賀の態度から十分わかろうというものである。また、相川は釜賀に対し「新労に来ないのは旧労の方に好きな男でもいるのか。」とか「新労にこなければ、会社をやめて貰わねばしようがない。」とか「辞職願の用紙は勤労にあるから辞めたいと思う時は、何時でも自分に云つてくれ。」など述べたことはない。まして况んや、同女の人格を誹謗したり、旧労から脱退することを強要するようなことは一切いつていないのである。当夜の被害者は少くとも相川であつて釜賀ではない。
(b) 義兄並びに同僚との対談
相川と釜賀との対談は前述したような経過を辿つたが、相川は時間が刻々過ぎ午前零時を過ぎた頃には釜賀を家に帰さなければならない。場合によつては自ら送つて行かなければならないと考えていたのである。しかしそのとき釜賀から相川に対し、「義兄と話をしたいから呼んでくれ」という申出でがあつた。相川ははじめ釜賀が義兄とともに来訪すると云う電話があつたことを思い出し、義兄に対し、何か話があるものと考え、できるだけ便宜をはかつてやろうという気になつて、義兄への連絡をとるなどしているうち、つい帰宅させるタイミングを失してしまつたのである。ところで、釜賀から義兄を呼んで欲しいと申出を受けた相川は、早速会社に連絡して、その旨伝え、釜賀の義兄に当る江後を相川宅に連れてきて貰うよう依頼した。しかし、そのような連絡をしたにもかかわらず、江後の到着はおくれ、相川も釜賀もただ何となく江後のくるのを待つていたが、連絡後約三〇分程してから釜賀は相川に対し「職場の同僚の人達とも話をしたいからできたら呼んで欲しい。」旨申出たのである。相川は工務室の従業員が釜賀を除き全員新労に加入したこと、分裂後は新労が就労していたため、釜賀は仲間の人達とも会つていないことなどを考え、釜賀の要望を容れることとし、誰と誰を呼んだらいいのか釜賀に尋ねたが、同女ははつきりした返答をせず黙つていたので、相川は常日頃釜賀と接触している人で年令的にも若い人達を、しかも、新労の役職についていない同僚を選び、会社に電話し釜賀の意向を伝え相川宅に来るよう連絡したのである。こうして、まもなく相川が指名した永松、田口、佐田、永野ら釜賀の同僚がきたので、相川はこれらの者に対し「釜賀が今晩家にきたこと、今迄いろいろ話をしたが釜賀が組合の分裂問題で悩んでいること、釜賀が職場の人達とも話をしたいといつていること。」を話し、「釜賀の同僚としてその意見も聞き、親身になつて相談にのつてやつて欲しい。」旨依頼したのである。その後、相川は釜賀と直接話すことなく専ら聞き役に廻つたが、午前四時頃、釜賀の同僚が相川宅を辞去する約二時間釜賀は職場の同僚に対し、「新労の方へ行つてよかつたと考えているか。」とか「新労を結成したことに対しどのように考えているか。」などの質問をし、同僚の人達はそれぞれ独自の立場で、「新労にきたことは正しかつた。」というような答をしていたのである。職場の同僚が来てから約一時間程して義兄の江後が沖田と共に相川宅に到着し、同僚との話に加わつたが、釜賀から義兄の江後に対し特別の話もなく、また釜賀からも積極的に同僚に対し質問するということもなかつた。その場の空気は沈黙がちであり、たまたま相川宅で出したお茶を呑んだり菓子を食べたりするような状態が多かつたのである。相川は釜賀が話をしたいといつて義兄や同僚等を呼び出しておきながら、特別な話をするのでもなく、分裂についての釜賀の質問と同僚の答弁が終つてからは、さき程述べたように殆んど雑談程度の話しかなく、手持無沙汰の状況であつたので、釜賀に対し「もう話すことはないね。」と念を押したところ、同女もこれに賛意を示したので、午前四時少し前頃相川宅を辞去することとなつたのである。職場の同僚が帰る際、釜賀と江後はそのまま相川宅に残ることとなつたが、同僚が帰る際、釜賀は相川宅に残ることを当然と考え、もう帰りたいというような発言はなかつたばかりでなく、荷物をまとめるとか一緒に立上るとか玄関口まで歩いて行くといつた、帰りたいという意思を言動によつて示すようなことは、一切なかつたものである。したがつて、相川は、釜賀に対し別に残れとも帰れともいわなかつた。また、釜賀は義兄を呼んでくれといつて義兄を呼んでもらつてから、義兄とは話らしい話も交えていなかつたので、釜賀、江後の両名が相川宅で話をするものと考えていたから、両名が留まることについて何らの疑問も抱かなかつたわけである。なお、当日は雨が降つており、両名とも自転車を持たず雨具の用意もしていなかつたから、相川は自動車を呼ぶなどして両名を送り届けようと考えていたのである。しかし、自動車を呼ぶとしても時間的にあまりに早くては呼んでもきてくれないのではないかと思い、同僚が帰つてから約一時間を経た午前五時頃自宅に車を呼び両名を帰宅させたのである。同僚が帰つてから車がくる迄約一時間ばかり時間があつたが、釜賀から義兄に対し特別の話もなさそうだつたので、その間、相川を交え三名で雑談をしていたというのが当日の実情である。もつとも、当日釜賀が終日睡眠をとつていなかつたので同女の健康を考えた相川が、「旧労の集会に明日もでかけなければならないのか。」という趣旨の質問をしたことはあるが、これが相川の発言中釜賀の組合活動に関連した唯一の発言だつたのである。もとより、相川は釜賀に対し「旧労の集会に出てはならない。」などと強要したことはない。ところが、六月一五日、朝、七時半頃、碇執行委員から相川に対し「釜賀さんを罐詰にしやがつたな。眠かつたろう。不当労働行為だぞ云々」の電話があり、相川としてはどうしてこのような電話をかけたか、不審の念にたえなかつたのである。上述したように、相川が釜賀の同僚を自宅に呼んだのは釜賀の要望を容れたものであり、誰を呼ぶかについても釜賀の意思をただしており、呼んだ人達も新労の役職にある者ではなく、その話の内容も釜賀の同僚に対する質問に終始しており、相川もしくは、釜賀の同僚等から積極的に新労に加入することを強要するような発言は一切なされていないのである。
(3) 会社は相川を説諭している
前述したように、釜賀は昭和三七年六月一五日午前五時頃釜賀の義兄江後とともに相川宅を辞去したが、釜賀は、まず、義兄の江後宅に至り、そのまま、組合事務所に赴き、相川宅における対談の模様をその場にいた参加人組合の組合役員に話している。しかるに、釜賀が相川課長宅において一夜を過ごしたことについては、直接相川に対し、不当労働行為だ云々、という電話をかけてきたが、原告会社に対しては、なんらの抗議も行つていない。当時参加人組合が些細なこと、たとえば職制(組合員の係長、組長)が酒を呑ませているとか、原告会社は無期限ストで困窮している組合員に金を貸してやつているとか、いつた根も葉もない事実無根の噂話しをとりあげ原告会社に対し再三、再四執拗に抗議を繰り返えし行つていた。したがつて、もし、相川が釜賀に対し組合からの脱退を強要したというのであれば、当時のそのような参加人組合の態度からみて、本件に関しなんらの抗議も行わないということは到底考えられないことなのである。この事実は、参加人組合においても当時相川課長の言動に組合脱退云々の話がでなかつたこと、釜賀を一日泊めたのも相川と釜賀との間に前記のような関係があることから、個人的な問題として考えていたことを物語るものである。そして原告会社は同年七月八日、新聞紙上においてはじめてこの事実を知るに至つたのである。この事実を知つた原告会社は、相川を呼びだし、当夜の模様を報告せしめた結果、相川の当夜の行動はその動機において相川と釜賀との特殊な関係から発生したものであり、その善意にもとづく行為であることは理解し得るが、入社後まもない女子社員を一夜自宅にとどめたことは課長の行動として軽率であるとの観点から同人を説諭し同人から始末書を提出せしめたのである。
(六) 被告命令の事実認定に関する誤謬について
(1) 相川と釜賀の関係に関する事実認定について
被告命令はその理由第一の2の(1)において釜賀ヤツノが相川の尽力により原告会社に採用され、釜賀の依頼により同女の身元保証人となつた事実のみを認め、なにゆえ釜賀が原液課に配置されたか、また、入社後相川と釜賀との関係がどのようなものであつたかについて、なんらふれるところがない。本件、六月一四日の相川の行為が相川の善意にもとづく言動であるかどうかは、このような入社後の相川と釜賀との関係を理解するのでなければでき得ない筈である。この点について原告会社は熊本地労委における初審以来被告中労委においても声を大にして主張し、立証しているのである。とくに、被告中労委においては相川夫人の昭和三七年度家計簿まで提出し、釜賀が入社後何回相川宅を訪れたかまで明らかにした。しかも、相川夫人の証言によれば、業務上のお使いとして釜賀は相川宅に来たことがあるというのである。原告会社において、原液課の一課員が課長宅を訪れるということは特別の事情がなければ殆んどなかつたのであつて、釜賀が原液課に配置される以前、釜賀と同じ仕事を担当していた女子事務員も相川宅を訪れたことはなかつたのである。このように入社以来わづか三、四ケ月間に釜賀が何回も相川宅を訪れているという事実や、相川の留守中、釜賀が相川夫人に家族のアルバム等を見せてもらい歓談しているという事実は、相川と釜賀との関係がただ単に課長対課員の関係になかつたことをものがたるものである。とくに、相川は釜賀の面倒をみていこうという気持で採用後原告会社に対し、釜賀を原液課に配置してもらうよう依頼した事実があること、昭和三七年四月一日付の身元保証書には釜賀がアルバイトとして採用されてから二ケ月も経ていないのに、釜賀との続柄の欄に「知人」と記載している事実があることなどによつて、相川が釜賀に対しどのような気持で接していたかが窺がわれるのである。就職の斡旋をしたから、また、保証人になつたからといつて、その後、なんらの交渉も生じない場合もあろうし、実質的に双互の信頼関係が生じ特殊の交友関係も生ずる場合もあるのである。相川と釜賀との関係はまさに後者の間柄に属する。しかるに、被告委員会が本件判断をなすにあたり、このような事実を看過したことは、まさに、相川の行動がその善意にもとづくものであるか否か、その判断を左右する重大な事実認定に関する誤謬であるといわなければならないのである。
(2) 釜賀の相川宅を訪れた事実認定について
被告命令はその理由第一の4の(1)において釜賀が相川宅を訪ねるに至つた事情について沖田が相川に依頼され釜賀を迎えに行つたこと、相川が午後九時頃釜賀宅に行き路上で沖田と話合つていた釜賀だけをタクシーに乗車させ自宅に連れ帰つた事実のみを認め、なぜ相川が沖田に釜賀を呼びに行かせたかについては、全くふれるところがないのである。しかし、相川がなにゆえ沖田を釜賀に行かしめたのか、なぜ相川がタクシーに乗つて迎えにいつたのか、その動機を解明するのでなければ、相川の六月一四日の行為が善意にもとづくものであるか否か判断することはでき得ない筈である。この点について、原告会社は初審以来被告中労委においても主張し、立証しているのである。とくに、原告会社は被告中労委において相川夫人を証人として申請し、相川夫人はこの間の事情について、同年六月一四日午後二時ごろ、会社の人から相川宅に「今日江後さんと釜賀さんが伺いたい。」という電話があり、この電話を受けた相川夫人が、その旨会社にいる相川課長に連絡し、相川課長は今日は帰る旨の返事をし、同日午後六時前帰宅したのである。すでに述べたように、相川は六月一二日、一三日と工場内に籠城し、殆んど徹夜で業務に従事するなど相当疲れていたが、釜賀との関係、釜賀の勤務する工務室の殆んどが新労に加入していたこと、近く原告会社も旧労に対するロツクアウトを解き、近日中に旧労の就労が予測されていたことなどから、相川としては釜賀が保証人である相川に対し、このような問題について、なんらかの相談をしたいに違いないと考えたことは常識的に理解しうるところである。もし、相川と釜賀との関係が単なる課長対一課員との関係であるとしたならば、釜賀がくるという電話があつたとしても、相川は別に意に介しなかつたであろうし、また、沖田に迎えを頼んだり、自から出向くようなことはしなかつたに違いない。すなわち、相川がたまたまおとづれた沖田をして釜賀宅に迎えに行かしめたのも、また、自ら迎えに出かけたのも「釜賀が相川宅に訪れたい。」という電話があつたからなのである。そして、この電話は相川と釜賀の前記のような関係を前提として、はじめて理解できるのである。また、相川と釜賀との間に特殊な関係があつたとしてもこの電話さえかかつてこなければ、本事件は起らなかつたに違いないのである。かくて被告委員会が事実認定にあたりこの電話のあつた事実を看過したことはその判断に影響をおよぼすべき重大な誤認であるといわなければならないのである。
(3) 相川宅における対談に関する事実認定について
被告命令に、その理由第一の4の(2)において、被告委員会は昭和三七年六月一四日午後九時過ぎにおける相川と釜賀との対談について、その内容が組合の分裂に関する内容であつたこと、新入社員はみんな新労になるとか、新労に入らなければ辞めてほしいなどと説得し、一二時過ぎ相川夫人も釜賀によく考えなさいなどといつた旨認定している。これまた一方的な事実認定である。被告がこのような認定をしたのは釜賀証言を全面的に採用したものであることは疑問の余地はない。しかし、釜賀は初審以来被告中労委においても、事実に反する証言をあえてしているのである。たとえば、釜賀がはじめて相川に会つたときの状況とか、相川宅を訪問した回数とか、保証人になつてもらつたいきさつとか、リクリエーシヨン歓送迎会に関する事実とか、業務課における釜賀の職務内容とか、昭和三六年々末における江後の釜賀宅における発言とか、署名運動はどのように行われたかとか、相川が採用試験の試験委員であつたとかその他枚挙にいとまがない程偽りの証言をしているのである。かかる証人の証言を採用することのできないことはいうまでもない。しかるに、被告中労委がこのような釜賀証言のうち、初審命令に有利なものだけとりあげ、採証したことは被告が初審命令を維持せんがために証拠価値なき釜賀証言を採証したと非難されてもいたしかたないであろう。とくに、同夜相川、釜賀間において、組合分裂に関する話がでたのは釜賀が相川に対しつぎつぎと組合に関する質問を行なつたからであり、相川はすべて受身の立場で答えたことが明らかである。このような相川の発言が新労加入の説得でありえよう筈がない。被告中労委の右事実認定は明らかに信憑力のない証言を採用した結果であり、それが違法であることは多言を要しないところである。しかも、その採証結果はその判断を左右する重大なものであるから、到底許さるべきではない。
(4) 午前零時過ぎの事実認定について
被告中労委は、その命令第一、4の(3)において、午前零時過ぎ勤労課と名乗る者から電話があつたこと、相川が釜賀がいない旨答えたこと、それが原因で相川、釜賀間にやりとりがあつたこと、釜賀が江後および原液課員に会いたい旨述べたこと、午前二時すぎ原液課員ついで江後が相川宅に到着し釜賀の質問で原液課員から分裂問題や新労問題で見解が述べられたこと、江後が釜賀に対し貴女もよく考えなさいよとか、お前は訳が分らんなどといつたこと、江後が妹の責任は僕にあるので僕がやめますと涙ぐんで発言したこと、午前六時頃に至り釜賀が今日一日考えさしてくれといつたので相川が自動車を呼んで帰えしたことなどを認定している。しかし、その間の経緯については前に述べたところである。この事実認定も釜賀証言のみを採用したのであつて、前段で述べたと同様、為にする採証として非難されなければならない。とくに、被告中労委は釜賀が「今日一日考えさせてくれ。」といつたので相川が釜賀の帰宅を許したかの如き認定をしているが、これまた誤まれる事実認定といわなければならない。なんとなれば午前零時すぎ電話がかかつた際相川が「釜賀はきていない」といつたことについて被告中労委もその後、この件について相川、釜賀間にやりとりがあつたことを認定している。また、釜賀が原液課員に対し組合分裂の問題、新労などの問題について質問したことについても同様認定している。このような釜賀の挑戦的態度から考えて、「今日一日考えさしてくれ。」といつたので、相川もやつと帰してくれたなどという被告中労委の認定が経験則に反する事実認定であることは明らかである。
上述したように、被告中労委の事実認定はその判断を左右すべき重大な事実について誤認がある。
(七) 被告委員会の法律判断の誤謬について
(1) 相川は釜賀に新労加入をすすめる機会をつくつたことはない。被告中労委は命令第二の判断の2の(1)において、相川は釜賀に新労加入をすすめる機会をつくつたものと認めざるを得ない旨判断をしている。そして、その理由として相川がタクシーで釜賀を迎えに行つたこと、対談内容が組合問題に終始したこと、工務室内で旧労に属しているのが釜賀一人であり、旧労のスト解除による就労を目前にし、相川が釜賀の新労加入をのぞんでいたことなどを挙げている。しかし、すでに述べたように相川が釜賀宅に訪れたのは、昭和三七年六月一四日午後釜賀が相川宅を訪れる旨の電話があつたからでありその余の話の内容が組合問題に発展したのも釜賀の質問が組合問題に固執したからである。このことは、被告中労委が命令書第一の4の(3)において釜賀の呼びだしに応じた原液課員が組合分裂問題、新労問題について質問されこれに答えている事実がある旨認定していることからいつても、当夜の相川、釜賀の話の内容が釜賀の組合分裂に関する質問によつて開始されたであろうことが窺がわれるのである。また、当時生産再開にあたり、原告会社は女子従業員を生産要員として期待していなかつたのであるから、とくに釜賀を新労に加入することを説得する必要もなかつたのである。このような事実から考えるとき疲れていたにもかかわらず相川が自からタクシーで釜賀を迎えにいつたのは相川と釜賀との関係がただ単に保証人という立場のみならず個人的に親密な関係にあつたことを示すものであつて相川が釜賀に新労加入をすすめる機会をつくつたなどという判断が常識に反する判断であることは明らかである。
(2) 被告命令の判断は誤まれる事実認定にもとずいている
被告委員会は命令第二の2の(2)において相川に命令書第一の4の(2)に認定の発言があつたことを認めざるを得ないとして、<1>ないし<5>の理由を挙げているがこの点についてはすでに事実認定の誤謬において指摘したところである。
(3) 釜賀が長時間相川宅にいたのは相川の責任であるという認定について
被告委員会は命令第二の2の(3)において課長の自宅に課員たる女子一名を九時間にわたり徹夜で在宅させたことは釜賀の責任であるということはできないと判断している。しかし、原告会社は被告委員会において釜賀が長時間いたことは釜賀にも一半の責任があると主張しているのである。したがつて被告中労委が徹夜で在宅させたことについて釜賀の責任を否定したことは前述した経過からいつて誤まりである。
(4) 当時、新旧両労組が勢力拡張のため緊張していたという判断について
被告中労委は命令第二の2の(4)において分裂直後の時期にあつて両組合が勢力拡張について緊張していなかつたという会社の主張に無理がある旨判断している。しかし、すでに述べたように、参加人組合においては新労の母体である組合員は組合規約にもとずく過半数の署名をとり参加人組合に対し組合臨時大会開催の要求を行い、分裂当時、すでに、新旧両労組の色分けは明らかにされていたのである。だから、当時、新労は組合員を増やすためになんらの行動も行なわなかつたのである。しかも、加入者は前記のように六月一三日就労籠城し、その後、加入を認められた者も逐次籠城したため、事実上互いに勢力拡張のため運動をすることなどできなかつたのである。被告中労委の判断は一般的に組合の分裂にあたつて、惹起されるであろう事態を予測し、この予断をもつてして興人労組の分裂の場合も、そうであろうと判断したものであつて、かかる判断の誤まれることは多言を要しない。
(5) 会社は組合の弱体をはかつたという判断について
被告中労委は相川がその地位を利用し釜賀に脱退を迫り組合の弱体化をはかつたものと判断している。そしてその理由として会社が新労を歓迎する声明をだしていること、相川も新労の結成に好意をもつていたこと、相川が釜賀の新労加入をのぞましいと考えていたことなどをあげている。しかし、会社の声明全文は左記の通りであつて、会社が新労の結成を歓迎したのは昭和三三年以降、無配赤字会社である原告会社が興人労組の無期限ストにより破産するか否かの重大な岐路にたたされていたからであり、このような原告会社の発言は言論の自由として許さるべきである。
記
声明
今次春斗において組合は会社の実態を顧みず厖大なベースアツプや無謀な操業方式を要求して十波に及ぶストライキを繰返しその上佐伯工場に於ては会社の指定した休転日を無視して就労斗争したり、自ら休日を設定して休務し、工場の操業を不可能ならしむる等違法行為を行つた。あまつさえ五月十八日以降は無期限ストに突入して既に二十余日を経過し会社の存立を危殆に瀕せしめるとともに従業員の生活を不安に追い込んでいる。かかる無謀な組合の指導方針に対して良識ある従業員の批判の声がほうはいとして起り組合の反省を促したが組合指導者は一顧だにあたえなかつた。ここにおいて良識ある従業員が一致結束して富山工場、本社、富士工場においては組合を脱退して新労組を結成し、佐伯工場においても新生労組が結成されたが八代工場においても良識ある従業員が結集して本日興国人絹パルプ八代労働組合が新しく結成されたことは誠に喜びに堪えない。会社は新しく結成された興国人絹パルプ八代労働組合を承認することは勿論その権利と人格を尊重して速かに交渉してベースアツプその他の経済要求を解決するとともに協力一致して八代工場の再建と従業員の生活の安定と向上をはかることをここに声明する。
昭和三十七年六月十二日
興国人絹パルプ株式会社八代工場
取締役工場長 田川知昭
とくに、右声明は生産を再開する新労の結成を歓迎しただけであつて、別に旧労組合員に対し新労に加入するよう呼びかけたものではない。まして况んや部課長など非組合員に対し、新労に加入するよう指示したこともない。したがつて、部課長が旧労組合員を自宅に呼び寄せたというような事実は本件だけであつて、他の部課長がかかる行為をしたことはない。しかも、本件は釜賀から訪れたい旨の連絡があつたという前提がある。また、相川は釜賀以外の部下旧労組合員と組合のことについて話合つた事実はない。これらの事実は被告中労委の前記判断を否定するものである。とくに、原告会社は相川に対し説諭処分を行い、その始末書までとつている事実があるのであるから、初審命令を維持する理由として被告中労委があげた三つの理由はまつたく関係のない理由といわなければならない。
(6) 中労委命令第二の3について
被告中労委は命令第二の3において相川の行為は新労を歓迎する会社の意に副う行為であり、課長として新労加入を説得する行為であるから当然会社に帰責さるべき旨判断する。
しかし、会社が興人労組の無期限ストにより破産するか否かの重大な岐路に立たされていた際、組合員が組合の幹部の斗争方針に反対し、組合を脱退し、会社の生産に協力する旨申し入れてきたことに対し、会社が歓迎の意を表したとしても、それは当然なことであり当時の緊急事態下における許された行為と考える他はないのである。そして、会社が歓迎したのは生産に協力する従業員集団が発生したこと自体であつて新労の結成それ自体ではない。その声明を虚心によめば会社の意図が工場の再建と従業員の生活安定にあつたことは明らかである。事実、会社が正面から関心をもつたのは、これらの生産協力者によつていつごろからどの位の生産が可能か否かであつて、さらに、新労に加入させようなどいう側面にあつたのではない。まして八代工場においては、旧労脱退者の数は分裂時すでに約一、〇〇〇名に及んでおり、その殆んどが新労に加入することが明らかであり、これらの人員をもつていかに生産するか検討中であつたから、従業員の組合所属に関心をもち新労組合員の新規加入を計ろうなどとは、最早や考える必要もなく、また思い浮ばなかつたというのが真実である。「相川が会社の意に副うため本件行為に及んだ」のではないことは、このことからも明らかである。また、会社が相川の本件行為を知つたのは本件発生後約一ケ月を経た後新聞紙上に本件が報道されてからである。
また、被告中労委は初審命令を維持し、会社に対し相川の行為につき謝罪すべき旨の掲示を行うべき旨命じ、これを当然のこととしている。しかしこの判断も誤まりである。およそ、人の責任を評価する場合、行為者の行為がいかなる行為であつたか、その情状は、また結果は、それが会社にいかなる影響を及ぼしたか等万般の事情を考慮し、決定せられるべきはもとよりいうまでもない。
国家の報賞制度は国家に対する貢献の度合により等級の差が設けられていると同様、責任を追及する場合にあつてもその行為が悪質であつたかどうか、その行為によつて如何なる結果が発生したのであるか、本人自らが行為したのであるか、それとも本人の意に反してそのような行為が行われたのであるか、更にまたその行為について反省の度合がどうであつたかなどによりその責任の等級も変化されてしかるべきである。
本件において、かりに相川が被告命令の認定するような事実を行い、また、かりに、前記相川の言動につき原告会社がその責任を負わなければならないという万一の場合を考えても、被告命令は原告会社にとつて極めて苛酷な命令であるといわなければならない。なぜなら、被告命令は原告会社が課長に命じ、その命令によつて課長が組合員を新労に加入させようとした場合と同じ評価をもつて会社の責任を量定し命令しているからである。換言するならば、被告命令は上記のような相川の行為を捉え、原告会社が部課長に命じた場合と同程度の組合に対する会社の支配介入行為として原告会社の責任を追及しているのである。しかし、かりに、相川が被告命令にあるような言動にいでたとしても、被告は本件における諸々の事情を考慮し命令すべきであつたのである。すなわち、分裂直後他の部課長がその課員に対し、新労加入を説得した事実があつたか、相川は釜賀以外の課員に対しても新労加入を説得した事実があつたかなどが考慮されてしかるべきである。もしこのような事実があるとするならば、それは会社の組合に対する直接の支配介入行為であると判断されてもやむを得ないであろう。たとい、会社が部課長に対し新労加入のため説得せよと命じなかつたとしてもである。しかし、すでに述べたように、分裂にあたり、この種事件は相川事件が唯一のものであり、それ以外にはなかつた。そして被告委員会も、会社が相川に命じて釜賀の説得を行つたものとは認定していない。課長は会社の利益代表者であるから、その言動については、被告会社も責任があるというにとどまるのである。したがつて、それは課長の言動であつて、被告会社の言動ではない。現行法秩序における責任論のあり方から考えても原告会社の一個人的言動につき会社が課長に直接命じたと同断の責任―原告会社に対し参加人組合宛謝罪することを命ずるような責任―を追及すべきでないことは明らかで、この意味で被告命令は責任追及の限度を超えたるものとして非難されねばなるまい。
かりに、相川が被告命令に認定されたような言動に出で、これについて、会社が責任を負うものであるという万一の場合においても、会社の責任は、せいぜい今後相川にかかることのないよう注意すべきであるという程度のものでしかないはずである。もし、本件について被告命令のような態度を承認することになれば、国家は会社に相川の就業時間外企業外におけるすべての言動に対する支配権を与えなければならないであろう。しかし、現行法秩序の下において、会社がかかる権限を与えられていないことは明白である。しかるにすでに述べたように、会社は本件不当労働行為の申し立てがなされる以前において、相川を説諭し、相川もまた始末書を提出し、謹慎の意を表しているのであるから、この事実に鑑みても、会社の責任は消滅しており、被告委員会は初審命令を取消すべきだつたのである。
(7) いま百歩を譲つてそれが不当労働行為を構成するものと仮定しても、被告委員会の命令中「陳謝文」に関する部分は頗る過酷に失し、明らかに違法である。いうまでもなく、企業経営は、現行資本制法秩序の下においては一の社会的人格として憲法上保護せられ、その体面の維持は企業存立の支柱を成すものであり、高度の尊重を必要とするものであることはいうまでもないことである。しかるに、いかに一課長の行為がたまたま会社の不当労働行為と認定され得るからといつて、会社が内外に対し永久に顔向けのできないような陳謝文を長時日にわたり掲示せよというが如きは無謀極わまるものであつて、会社に対する死刑の宣告である。かかる命令はまさに経営権を根幹から覆滅するものというべく、その違憲違法なることはすこぶる明白である。
五 上述したように、被告命令は事実の認定および法律上の判断を誤つているので、原告の求めた裁判欄記載のとおりの判決を求めるため、本訴提起に及んだ次第である。
被告の答弁
一、原告主張の請求原因一ないし三の事実は認める。
二、同四については、同項(一)の事実は認めるが、その余の事実については、被告委員会の命令書の理由に記載したところに反する部分は、すべて争う。なお、次のとおり附言する。
(一) 原告の請求原因四の(六)「被告命令の事実認定に関する誤謬について」の項中、(1)「相川と釜賀の関係に関する事実認定について」と題する原告の主張について、
原告は、釜賀が入社以来三、四カ月の間に数回相川宅を訪問し、あるいは相川が釜賀の就職について面倒をみたり、保証人になつたりしたことは、相川と釜賀の間にはただ単に課長対課員の関係にとどまらず、実質的に相互の信頼関係が生じ、特殊の交友関係も生じていたものであると主張する。
しかしながら、釜賀が相川宅を数回訪問しているとの相川悦子証言に徴しても、釜賀が相川の課員である義兄の江後と就職についての縁故を求めて運動したり、あるいは、社員として必要な社交的、儀礼的な訪問の程度を未だ出ていなかつたのであるから、相川と釜賀が課長と課員の間柄以上に個人的に親密な関係にあつたものと認めることはできないのである。ただ、相川が釜賀の保証人としての立場から釜賀に対し適切な配慮を示すことはありうることとしても、事は組合問題だけについてなのであるから相川が課長としての立場から釜賀を説得したものと認めざるをえないのである(命令書理由第二の2の(1)の<2>)。
(二) 同(2)「釜賀の相川宅を訪れた事実認定について」という原告の主張について
原告の主張するところは、要するに、相川が釜賀を呼んだわけではなく、釜賀の方から相川宅を訪ねることになつていたのであるとする。原告の主張するところによれば、相川夫人は、会社の人から「今日江後さんと釜賀さんが伺いたい」との電話連絡を受けたことになつている。そこで同人は、会社にいる相川にその旨電話で連絡して、「今日釜賀さんがくるらしいけれど、今日帰つて来ますか」と言つていることになつている。
右「会社の人」(男の声)が誰であるか遂に明らかでない。しかも、当時、相川は、新労組合員(江後も新労組合員)と共に会社内に籠城して、生産再開準備に忙殺されていたことではあり、江後が釜賀と相川宅を訪ねることを特に相川の留守宅に連絡する必要があつたか疑わしいしまた、江後と釜賀が連れ立つて相川宅を訪れるような経緯については少しも原告主張には認められないばかりでなく、およそ訪問を予定した客が来ないからといつて、夜の九時過ぎに当日は疲れ切つていたはずの相川が自らタクシーで迎えにゆくなどということは、経験則に反することではないか。これが相川の保証人としての善意に出でた行為とは到底認め難い。
すなわち、電話連絡の件は疑わしいし、沖田が万年筆を届けるために相川宅を訪問したというのも疑わしいし沖田が釜賀を迎えに行つた動機(原告主張によれば沖田は釜賀を迎えに行つて一時間以上も立ち話しをしていたという。釜賀が当初から相川宅を訪問するつもりであつたなら、すぐ応じてよい筈である。)また、相川自らが迎えに行つた動機についても、原告の主張するところはいずれも矛盾しており、命令書理由第一の4の(1)および第二の2(1)の<1>、<3>の認定にいささかの誤りもない。
(三) 同(3)「相川宅における対談に関する事実認定について」との原告主張について、
原告は、組合問題に関し、相川は、受身の立場で応答しただけであつて、被告委員会が信憑力のない釜賀証言を全面的に採用したことは違法であると主張する。
しかしながら、相川が未成年の子女をして徹夜して在宅させ対談を試みたのは、組合分裂の直後で、しかも参加人組合の組合員も近々就労させなければならない時期であつたのみならず(命令書理由第一の3の(2)ないし(4)、同第二の2の(5)の<1><3>)、相川は、新労歓迎の会社声明に同感し、同人自身も興人労組のあり方を批判し、新労結成に好意をもつていたのである(命令書理由第二の2の(5)の<2>、<3>)。
従つて、相川が釜賀に対し新労に加入するよう説得したことは、以下の事情を併せ勘案するとき、おのずから明らかである。
すなわち、
(イ) 同夜十二時頃まで釜賀に対して相川の説得が行なわれた段階で、両名の対談に参加した同人の妻が、釜賀に向つて「あなたもよく考えなさいよ」と言つている(命令書理由第二の2の(2)の<4>)。
(ロ) 同夜同僚らとの話しの際江後は、釜賀に対して自己の考えを反省するよう説得し、ついには涙ぐむに至つたが、これは各証言に共通するところであつて、江後が切迫した心境に置かれていた模様がうかがえる(命令書理由第二の2の(2)の<5>)。
(ハ) 同日夜半、相川宅へ行くために沖田が迎えにきた際江後は、釜賀に相談することがあつたと話しているしまた、六月十二日には、工務室係長永松が釜賀に新労加入を説得しているのであるから、釜賀が参加人組合にとどまつていたことは、釜賀の周囲にある者にとつて関心外のことであつたとはいえないのである。
次に、会社は、釜賀証言に証拠価値がないことを主張しているのであるが、相川は、釜賀を自宅につれ帰るまでの経緯については、相当の記憶があるにもかかわらず両者対談の内容についての相川の記憶が漠然として不明瞭であるのみならず比較的明らかであるのは、就労後の事態を相川が心配していると言つたことだけである。更に、参加人組合執行委員に対して相川が行つた非難については、証言を翻えして認めるに至つたのである。
従つて、むしろ相川証言にこそ信憑力がないのであつて、相川に命令書理由認定のとおりの発言があつたことは疑いえないところである。
よつて、同日夜相川が釜賀に対し、参加人組合からの脱退、新労加入を説得したものであるとした命令書理由第一の4の(2)、(3)および第二の2の(2)、(5)の認定にはなんらの誤りはない。また、被告委員会が信憑力のない証言を採用したものでもない。
(四) 同(4)「午前零時すぎの事実認定について」との原告の主張について、
原告は、釜賀の挑戦的態度から前段同様為にする採証であると主張するが、すでに前述したとおりの理由によりその主張は失当である。
(五) 原告の請求原因四の(七)「被告委員会の法律判断の誤謬について」と題する原告の主張について
(1) 原告は、相川が釜賀に新労加入をすすめる機会をつくつたことはない。また、当時会社が女子従業員を生産要員として期待していなかつたと主張する。しかしながら、前記二の(二)において陳述したとおりの理由によつて、被告委員会は、相川が釜賀に新労加入をすすめる機会をつくつたものであると判断し、この判断には誤りはないと確信する。
また、原告は、女子従業員を生産要員として期待していなかつたので、釜賀を新労に加入するよう説得する必要もなかつたのである、と主張する。しかしながら、本件について注目しなければならない点は、命令書理由第一の3の(2)認定のとおり、相川直属の原液課工務室二〇名中参加人組合にとどまつていたのは釜賀一名であつたということ、しかも、会社は、昭和三十七年六月十日現在富山支部が興人労組から脱退しただけの段階であるにもかかわらず、翌十一日には「既に統制力を失つた現中斗は会社の交渉相手としては不適格であることを断定」(命令書第一の3の(3))している。このような会社の態度は、興人労組が組合としての実体を喪失することを期待していたものと言わざるを得ないし、相川もこのような会社の方針を体していたのであつて、生産再開に必要な人間として新労員に期待していただけではなく、興人労組に対抗する新労の強化育成のための観点から、原告会社側が従業員の組合所属に注目していたものと断ぜざるをえないのである。
(2) 原告は、六月十四日夜の相川宅での対談について事実誤認を主張するが、前記被告答弁二の(三)のとおり、被告委員会の認定に誤りはない。
(3) 原告は、釜賀が徹夜で相川宅に在宅したことについて、被告委員会が釜賀の責任を否定したことは誤りであると主張するが、前記二の(三)のとおりの情況から、課長の自宅に課員たる一女子を徹夜で九時間に及んで在宅させたことを釜賀の責任であるということはできないのである(命令書理由第二の2の(3))。
(4) 原告は、新旧両労組が勢力拡張のため緊張した関係になかつたし、新労は組合員を増やすためなんらの行動も行なわなかつたと主張する。しかしながら、六月十二日の組合分裂後、新労は、加入希望者に対し資格審査を行ない加入せしめていたのであつて、十五日頃までには約三〇〇名について審査を行なつていたのである(命令書第二の2の(4))。この事実は、分裂後も両組合についての従業員の帰属関係が流動的状態にあつたことを物語るものであつて、不安定な緊張した状態が現出していなかつたとする原告の主張は事実に則したものではないのである。従つて、命令書理由第二の2の(4)の認定に誤りはない。
また、新労が組合員を増やすため行動しなかつたとの主張は、前記二の(三)の(ハ)の永松の行為からみても措信し難いものであると言わざるをえない。
(5) 原告は、会社が組合の弱体化を図つたことはないし会社声明はそれを意図したものではないと主張する。しかしながら、原告が主張するのは、六月十二日付八代工場長の声明だけであつて、六月十一日付会社声明については故意に触れるところがないのである。両声明を一連のものとして把握するとき、会社が興人労組を非難し新労歓迎の意を有していたことは歴然たるものがあり、相川が自ら進んで会社の意を体して行動したのも当然のことと言わざるをえない。
(6) 原告は、相川の行為は、会社に帰責されるべきであるとの命令書第二の3記載の判断を争い、相川の行為は会社が命じたものではなく、個人的言動であるから会社の責任を追及するのは失当である。またかりに、会社が責任を負うとしても、原告会社にとつて極わめて苛酷な命令であるといわなければならず、その後会社は、相川を説諭しているのであるから、会社の責任は消滅しており、初審命令は取消さるべきであつたと主張する。
しかしながら、会社は、前項(5)のとおりその声明において興人労組を非難し、新労歓迎の方針を明らかにしていた直後新旧両労組間には組織上緊張した状態にあり、会社及び職制が従業員の組合所属に関心を示していたような状況の中で、相川は、自ら進んで会社の意に副い、相川が課長としての立場から本件行為に及んだことについては、被告委員会の命令書理由のとおりであつて、いささかの誤りもないことは前記陳述のとおり明らかであつて、しかも命令書理由第二の一判断のとおり相川は、会社の利益代表者の地位にあつたことを考慮するならば、相川の本件行為については当然原告会社に帰責さるべきであるとの判断に誤りはない。
また、会社は、相川を説諭し、相川は、謹慎の意を表明しているのであるから、被告委員会の命令は苛酷であり、原告会社に対する責任追及の限度を超えたものであると主張する。しかしながら、会社が相川の本件行為につき相川に対して前記の如き措置をとつたとしても、訴外組合との労使関係のあり方について、原告会社は、相川の本件行為につきいささかも責任を感ずるところなく、反省もしていないのである。従つて本件が相川一人の行為をめぐる問題であるからといつて、前記諸事情のもとになされた相川の行為を軽視できないし、その他初審命令の内容を変更するなんらの必要も認められないと判断(命令書理由第二の3後段)し、初審命令を支持したことについての被告委員会の裁量にはいささかの違法性もないのである。
三、以上のとおり、原告主張にはすべて理由がない。よつて本訴は速かに棄却さるべきである。
証拠<省略>
判断
参加人組合が、昭和三七年六月一四日夜原告会社原液課長相川宏遠方における右相川と参加人組合の組合員である釜賀間の話合を、不当労働行為であるとして地労委に対して救済命令の申立をし、地労委は、昭和三八年五月一八日参加人組合の申立を理由があるものと認定して、別紙(一)のような初審命令を発したこと、原告会社は、その命令を不服として被告委員会に対して再審査の申立をしたけれども、被告委員会は、昭和四一年三月一六日別紙(二)の命令書記載の理由で再審査申立棄却の命令を発し、その命令書は、同年四月二日原告会社に到達したことは当事者間に争いがない。
一 昭和三七年当初の会社と組合の関係
原告会社は、肩書地に本店を置き、大阪市に支店を、富山市・佐伯市・八代市・吉原市にそれぞれ工場を有する資本金三一億二千万円の株式会社であつて、パルプ・紙・化繊などの製造販売を主たる業務内容としている。その内八代工場はスフ綿・セロフアン原料のビスコース等を製造している。昭和三七年当時、原告会社の総従業員数は約三、四〇〇名で、その内組合員数は、本社及び大阪支店関係約二一七名・富山工場約六六八名・佐伯工場約六六五名・八代工場約一、三〇八名・富山工場約三三八名の計約三、二〇〇名で、非組合員数は本社及び大阪支店関係約八〇名・富山工場約三五名・佐伯工場約三〇名・八代工場約三〇名・富士工場約一五名の計約一九〇名であつた(昭和三七年一一月、富山・佐伯・八代の各工場は支社と名称が変更された。)。これらの従業員達は、はじめの頃、各事業場毎に各別の労働組合を作つていたが、昭和二二年中興国人絹パルプ労働組合(即ち「興人労組」)という単一組織の労働組合を結成して、各事業場毎にその支部を設けるようになり、その後昭和三四年三月には、全国紙パルプ産業労働組合連合会に加盟したため、組合名の上に右連合会の名称を冠することになつた。参加人組合は、昭和二二年三月原告会社八代工場の従業員をもつて結成されたが、右の経過から興人労組の支部組合として全国紙パルプ産業労働組合連合会興国人絹パルプ労働組合八代支部と称するに至つたものであることは、当事者間に争いがない。
二 興人労組の分裂
興人労組は、昭和三七年三月二日、一律六、〇〇〇円の賃上げその他七項目にのぼる要求をしたところ、原告会社が、同月二七日会社の計算方法による組合員一人あたり平均一、六三六円の賃金引上等の回答をしたにとどまつたので、これを不満として翌二八日第一波全面二四時間ストライキに突入し、以後、全面スト・部分スト・時限スト・時間外勤務拒否などの争議行為を反覆し、五月一八日からは完全な無期限ストを実施するに至つた。このため、原告会社は、六月九日には佐伯工場のロツクアウトを宣言し、同月一一日には八代工場にもロツクアウトの手段をとつて対抗した。ところが、六月一〇日から翌一一日にかけて興人労組富山支部・同本社支部・同富士支部が相次いで興人労組から脱退し、又佐伯支部の大部分の組合員も脱退した上、それぞれ別個の労働組合を作り、又六月一二日には、八代支部の脱退組合員約七〇〇名が興国人絹パルプ八代労働組合(いわゆる「新労」)を結成したので、昭和三七年七月現在では参加人組合(興人労組八代支部)の組合員数は一、三〇〇名から二九一名へと激減し、他方、新労の組合員数は一、〇〇〇名を越すほどになるに至つた。原告会社は、富山支部等が興人労組を脱退した際、同年六月一一日に、「この段階における会社の態度としては、力による要求獲得のみを目的とし、既に統制力を失つた現中斗は、会社の交渉相手としては不適格であると断定せざるを得ない。」という趣旨を盛つた会社声明を発し、又八代で新労が結成されると、同月一二日「八代工場においても良識ある従業員が結集して、本日興国人絹パルプ八代労働組合が結成されたことは誠に喜びに堪えない。会社は、新しく結成された興国人絹パルプ八代労働組合を承認する。」という趣旨の会社声明を発表したりして、新労結成後直ちに、原告会社の八代工場長田川知昭と新労との間で交渉を持ち、新労の承認・労働協約の締結・就労等について協定書を作成した。そして、六月一三日の早朝には、新労の組合員が工場に入つて籠城し、就労することになつた。一方、参加人組合は、六月一三日無期限ストを解除したけれども、原告会社は、新労からの申出等もあつて、直ちにロツクアウトを解除することはせず、同月一五日八代工場長・新労の執行委員長・参加人組合の長の三者会談によつて、ロツクアウト解除に関する申合事項を約した上、同月一六日午前一〇時ロツクアウトを解除した。その後同月一九日まで、各職場毎に懇談会を開いたりして就労の準備をしていたため、現実に参加人組合の組合員が就労したのは同月二〇日すぎとなつた。以上のことも当事者間に争いがない。
三 相川課長の地位
相川宏遠は、昭和三四年一〇月以降八代工場の原液課長の職にあり、昭和三八年一月レーヨン事業部付に転じたものであるが、相川が原液課長であつた昭和三七年六月当時の原液課員は二五〇名で、その内二〇名が同課工務室に配属されていたこと、八代工場における課長は、一般的に、人事に関して、三級職以下の課員の課内異動を決定する権限を有している他、四級職以上の課員の課内外への異動・課員の昇進・賞罰等について部長に提案し、又課員の人事考課を行い、或いは部内の調整等に参画する地位にあるものであり、特に相川は、原液課長在職中八代工場と参加人組合との間で行われた団体交渉のうち、原液課の業務に関する事項が議題となつた場合などに約一〇回位団体交渉に出席したこともあつたことは、当事者間に争いがない。
とすると、右の事実だけからしても、相川は、労働組合法第二条第一号にいう監督的地位にある者ないし使用者の利益を代表する者に該当するものといわなければならない。しかも、原告の主張するように、相川が原液課長として、生産計画に基いて工程別生産実施計画を立案検討すると共にその実施を管理したり、作業標準・技術標準・設備等の改善を部長に提案したり、主管業務に関する各種日報を作成したりする職務権限を持つており、又工場各課長に共通する業務としては、業務管理・組織管理・人事管理・財産管理などに関する事項の他、予算・報告諸手続・官公庁や外部諸団体との連絡接渉等に関する事項等も含まれていた(成立に争いのない乙第六三・六四号証によつて認める。)とするならば、なおさらであつて、相川の職務権限が多岐に亘り人事管理はその一部にすぎないとしても、同人が前記法条にいう監督的地位にある者ないし使用者の利益を代表する者に当るという判断に消長をきたすものではない。
四 釜賀と相川の関係
釜賀は、高校卒業に際して義兄江後譲の紹介で相川に就職のあつせんを依頼したところ、幸い、相川の尽力によつて、昭和三七年二月五日から、本採用を予定された原告会社のアルバイトとして、八代工場の相川が課長をしている原液課の工務室に勤務することになつたが、同年三月高校を卒業したので、同年四月一日付で正式社員として採用されることとなつた。そして、相川は釜賀の依頼によつて正式採用の際その身元保証人を引き受けた。その後、釜賀は、昭和三八年八月二一日付で原液課から業務課へ配置換となつている。又釜賀は、正式採用と同時に参加人組合に加入し、その後間もなくして起きた昭和三七年の労働争議に参加し、同年六月の組合分裂後も参加人の組合員として踏み止まつていたことは、当事者間に争いがない。
五 昭和三七年六月一四日夜の出来ごと
証人相川宏遠・中川ヤツノ・長嶺正次の各証言、成立に争いのない乙第四八・四九号証、第五一・五二号証、第九九・一〇〇号証、第一〇九号証によれば、次の事実が認められる。
昭和三七年三月のストライキ突入から同年六月の組合分裂に至るまで、相当長い間原告会社と興人労組との紛争が続いていたのであるが、八代工場でも新労が結成されて就労を開始し、参加人組合(興人労組八代支部)も無期限ストを解除した同年六月一三日の翌日である六月一四日の夕方七時半頃、相川課長宅を訪れた原液課に勤務していた沖田義昭(新労の組合員)は、相川に依頼されて、オートバイで釜賀をその自宅に迎えに行つた(相川課長宅と釜賀方は六、七粁離れていた。)。釜賀は当日参加人組合(旧労)の会合に出席して午後七時頃帰宅したが、帰宅後近くに分家している兄の家に行つておつたので、沖田が来たときには在宅していなかつたけれども、その後結局、自宅で沖田と会い、家人に相川課長の家に行つてくる旨を告げ、自転車に乗つて沖田と一諸に自宅を出た。二人が釜賀方から数百米来て雑貨店の前に差しかかつた時、釜賀は、電話をかけるからと云つてその雑貨店に入り、参加人組合に電話をかけて何やら相談をした。その間沖田は外で待つていたが、出て来た釜賀から、今日は行かないという趣旨の言動があつたため、沖田は、さらに相川課長宅にさそうようなことは一度もせず、その場で直ぐに別れて帰ろうとしたところ、釜賀から話をしようと持ちかけられたため、二人で組合の分裂問題などについて相当長時間話合を続けていた(釜賀は二十分位といい、沖田は一時間位というが、正確な時間は判然しない。)。そこへ、沖田の帰りが遅いので心配した相川が、釜賀方を回つて雑貨店の前までタクシーでやつて来て(午後九時前頃)、釜賀をそのタクシーに同乗させて自宅に連れ帰つた。午後九時十分頃自宅についた相川は、自宅応接間で釜賀と話合を始めたが、釜賀は、組合の分裂問題や原告会社の介入問題等を取り上げて午後一二時頃まで約三時間激しく原告会社を攻撃していた。これに対して相川も極力原告会社を弁護したり、或いは参加人組合の組合幹部の人格行動等を批判したりしていたので、二人の話合は感情的な色彩を帯び、互に一歩も引かない理論斗争的な面が強く出ていた(当時釜賀は、参加人組合の集会には毎日出て、女性としては一番良く発言する方であつた。)。ところが、丁度午後一二時すぎ頃、相川課長宅に電話がかかつて来て、「勤労の者ですが、釜賀さんは来ていませんか。」と尋ねたので、おかしいと思つた相川は、「釜賀さんは来ていたけれども、もう帰つた。」趣旨の返事をして電話を切つてしまつた。それを隣の応接室で聞いていた釜賀が、「自分はこうしてここに居るのに、どうして嘘を云つたのか。」と云つて相川にくつてかかり、ひとしきりそのことで云い合いを続けたが、間もなく話題もなくなつて沈黙がちになつて行つた。話もとぎれ勝となつた翌一五日の午前一時頃、釜賀は、やはり原告会社の八代工場原液課に勤務している姉婿の江後譲を呼んで貰いたいと相川に申し出たので、相川は、自宅から電話で、当時就労のために八代工場内に籠城していた新労の組合員に電話したところ、前記の沖田義昭が江後をその自宅まで迎えに行くことになつた。しかし、なかなか江後はやつて来なかつた。午前一時半頃になると、釜賀は、さらに、職場の人達とも会つて話をしたいから呼んで貰いたい旨の申出をしたので相川が、又工場に電話して原液課の者数人を呼んだところ午前二時前後頃、永松・佐多・田中・永野の四名が相川課長宅にやつて来た。相川は右の四名を応接室に通し、「釜賀さんがどうしてよいか迷つているから、君達どんな考えを持つているか話をしてごらん。」という趣旨のことを云い、又釜賀も一、二質問をしたので、右の四名は、順番に、新労に移つた理由や考え方などについて説明していたけれども、釜賀の方は、自分から永松等を呼んでもらつておきながら、永松等の話を聞くでもなく聞かぬでもなく、殆んど黙つて坐つたままで時間が経つていつた。途中午前三時すぎ頃、沖田と共に江後も相川課長宅にやつて来たが、午前四時頃になると話も尽きてしまつて沈黙が続き、結局永松等は釜賀と江後を残して帰つて行つた。ところが、釜賀は、相川宅に来てから永松等が帰るまでの間一度も帰りたいと申し出た事実はなかつた。永松等が帰つてから相川・釜賀・江後の三人で話をした後、相川がタクシーを呼んで午前六時頃釜賀と江後の二人が帰つて行つたが、釜賀は、江後をその自宅に送り届けると、直ぐその足で参加人組合の事務所に引き返して、その晩の状況を組合幹部に報告した。これを聞いた参加人組合の碇執行委員は、午前七時半頃相川に電話して「釜賀さんを罐詰にしやがつたな。眠かつたろう。これは不当労働行為だぞ。」と申し向けた事実があつた。昭和三七年の争議に関し、解雇についての訴訟の提起されたことはあつたが、分裂に関係した救済命令申立事件は、本件の他には一件もなかつた。
右認定事実を覆すに足りる証拠は何もなく、当裁判所としては、右の事実は殆んど動かし難い確実なものであると考える。
ところで、(イ)、相川が何故沖田に頼んで釜賀を迎えにやつたかであるが、証人相川宏遠の証言によれば、昭和三七年当時、参加人組合の事務所には、相川の住んでいる社宅を含めて工場内だけにしか通じない社内電話と、外部にも通ずる一般の普通電話の二つがあつたけれども、相川課長宅には内部だけに通ずる社内電話があつたに過ぎず、外部から相川課長宅に直接電話をかけることは不可能であつたことが認められる(この認定に反する証拠はない。)。ところが、乙第四九号証、第五一号証、第九九・一〇〇号証によると、「問題の昭和三七年六月一四日午後二時頃、相川課長宅に「江後さんと釜賀さんが今晩見えますから。」という連絡の電話がありこれを受けた相川の妻悦子が、工場に出ていた相川にその旨を伝えて、今夜帰るかどうかを尋ねたところ、相川は、「今夜は非番だから帰る。」と返事して午後六時頃帰宅し、夕食をとつて休息していたら、午後七時半頃、沖田が、新労の組合事務所に行くついでに相川課長宅に立ち寄り、当日相川が工場の自分の机の上に置き忘れた万年筆ケースを届けた。その応待に出た相川は、釜賀が来ることになつているが、まだこないからとの理由で迎えに行つて貰つた。」ということになつている。本件において、被告委員会は、この午後二時頃の電話があつたかどうか疑問であるとし、その主たる理由として、右電話をかけた者が不明であり、江後が電話をかける必要もなかつたと主張するけれども、電話をかけた者が口をつぐんでおれば、これを調査することは殆んど不可能に近く電話をかけた者が判らないからと云つて、それだけで直ちに電話の件を否定するのは問題であり、又江後が電話をする必要がなかつたということは、他の第三者が何等かの事情で電話をかける必要のあつた場合をも、否定する理由とはならない。しかも、被告委員会における証人相川悦子が、ことさら事実をまげた供述をしていると認められる点はすくなく、仮りに、相川と妻悦子が口裏を合せた虚偽の供述をしたと仮定しても、さらに、沖田までがこれら供述に符合する虚偽の供述をしたとは到底考えられず、いずれも成立に争いのない前掲乙各号証及び本件弁論の全趣旨に照すと、午後二時頃の電話の件は、やはり、事実あつたことと認めるのが相当である。しかも、証人相川宏遠の証言によれば、この事件後、電話の件で二・三あたつて見たが、遂に誰がかけたものか判らなかつたことを認めることができる。このことからみれば、それは江後の意志に基くものではなく、他の何者かが工場専用の社内電話を使用して右のような電話をしたものという外はない。さらに新労の者がかけたものとすれば、それがいたずら電話(そのように認めるべき証拠は全くない。)でない限り相川課長の前記事後の調査により、電話をした者は容易に判明し得たであろうと考えられるのにそれが判明していないこと及び参加人組合事務所と相川課長宅との社内電話、普通電話の設置関係が前記の如くであつたこと並びに前段認定の事実を総合すると右電話のかけ主は参加人組合の者ではないかとの疑いが極めて濃厚である。
(ロ)、又沖田が釜賀を迎えに行つた時のことであるが、乙第五一号証(地労委における沖田供述調書)によると、釜賀の自宅で、沖田が釜賀に向つて、「課長はあんたが来ると云つて待つとられましたよ。」と云つたら、彼女の方から「私も課長と会つて話したい。工務室の人とも話したい。」という趣旨のことを述べたことになつており、しかも、雑貨店で電話をかけ終つた後、釜賀が「今日はいかんでいいそうですもん。」と云つたこととなつている。釜賀は、極力、「課長の家には行きたくなかつた。今日は行かなくても良くなつたという趣旨の発言をしたことはない。」旨述べている(乙第一〇九号証、証人中川ヤツノの証言)けれども、前認定のように、釜賀は、参加人組合に電話をした後、自ら進んで沖田に組合分裂等に関する話をきり出していることや、当裁判所が証人として取り調べた際、「今日は行かなくても良くなつた。」と言つた点を危く肯定しそうになつて、あわててこれを否定するに至つたその証言態度等に徴すると、沖田の地労委における右の供述(乙第五一号証)が事実に反するものであるとは認め難い。特に、相対立する相川と釜賀の両名に対していわば第三者的立場にある沖田としては、殊更虚偽の証言をすべき理由はない(沖田は地労委で釜賀の後で証言している―乙第四七号証及び第五〇号証参照)。この「今日はいかんでもいいそうですもん。」という言葉の意味自体は、色々解釈の余地もあろうけれども、当初自ら行くことを予定していたものを、他からの指図によつて行かなくても良くなつた、という表現であると見るのが素直であろう。
(ハ)、午後一二時頃の「勤労の者ですが、釜賀さんは来ていませんか。」と尋ねてきた電話の件であるが、これが参加人組合からかけた電話であることは、弁論の全趣旨によつて疑う余地がないものと認められる。しかして、成立に争いのない乙第五四号証(地労委における桑原繁雄の供述)によると、釜賀が雑貨店よりかけた電話に対して、参加人組合からは、「行かない方がいいじやないですか。」とすすめて、釜賀の方より、「断つて行きませんから。」との返事が戻つて来たことになつている。若し、釜賀と参加人組合間には、単にそれだけの連絡があつたに過ぎないのであれば、通常の場合、参加人組合が釜賀の行方を探すということは一寸考えられないにも拘らず、参加人組合が、深夜の一二時過ぎに、しかも名前をいつわつてまで、わざわざ相川課長宅に電話をかけて釜賀の所在を確めること自体、人をして疑惑の念を抱かせるに十分である。右判示の事実関係からすると、さらに進んで、参加人組合としては、当夜の釜賀の行動を把握していたものと推認するのが相当であり、このことは、釜賀が、午後一二時すぎの電話を参加人組合よりのものであると感じて、相川に文句を云つている(乙第四八号証)点からしても首肯し得るところである。
(ニ)、それから、釜賀は、「一五日の午前一時頃から一時半頃までの間に江後や永松等を呼んでもらつたのは、疲れて眠たくて早く帰りたいという気持からである。」と述べている(証人中川ヤツノの証言、乙第四八号証、第一〇九号証)けれども、前段認定事実のように課長の相川に対しても面と向つて率直にものを云つてきた釜賀が、もう帰りたいと云うことさえできなかつたとするのは極めて不自然であるという外はない。のみならず、釜賀が、証人として当裁判所の面前で巧まずして述べた「私がここに一晩中おるということを、誰か他の人にも見せておきたかつた。」との証言は、当夜の釜賀の真意を表明してあまりがある。とすると、釜賀が、二回に亘つて江後や永松等を呼んで貰つたのは、帰るためのきつかけを作るためというよりも、むしろ相川課長宅に長時間居坐わるための手段ではなかつたのかという疑念の生ずるのを否定することができない。しかも、朝になつて相川課長宅を辞するや、自宅には帰らずに直接参加人組合の事務所に赴いて、当夜の出来事を組合幹部に報告し、間もなく碇執行委員から相川に「不当労働行為だぞ」との抗議電話をした点等を併せ考慮すると、右の疑問はますます深いものとなつてくることはあつても、相川が、(まことに不用意であつたとは云えようが)半ば強制的に釜賀を引き止めていたものであるとは到底首肯し難いものといわなければならない(永松等が帰るとき、相川が釜賀に対して、あなたは残つていなさいと云つた事実はないようである。証人中川ヤツノの証言参照)。
他方、相川と釜賀の対談の際における相川の言動であるが、前掲乙第四八号証によれば、両人の激烈な云い合いの中で、相川が釜賀に向つて、「君が第一組合に残つてそんなにつとめていても、他の人達は変なことを云うし、白い眼で見ている。部課長会議でも専らの評判だ。」とか、釜賀が相川に向つて、徹底的に原告会社を攻撃する言葉を発したのに対して、相川が、「会社は君の云うようなテコ入れは一切やつていないんだ。分裂したのは組合幹部に欠陥があつたんだ。」と答えて組合幹部の一人一人に対して人格攻撃をしたとか、「僕は身元保証人であつて、君についても責任があるから、こういう話をしているんだ。」とか、或いは、「第一組合の数は減つて行くし心細いんじやないか。そして自然に自滅していくんだ。」とか、「こつち(新労)に来なければ会社をやめて貰いたいと思う。辞職願の用紙は勤労の方にある。」とか、永松等のいる前で、「君も熱病にかかつたものだから一日組合を休んだらそういうものはとれるかも知れない。明日から組合に行くな。」と相川に云われて、釜賀から「私は休まれない。」と反対されたとか、相川が、「君が第二組合に入るときの資格審査については、自分がうまい具合にやつてやる。」とか、いう趣旨のことを云つたことになつている。
なる程、釜賀の供述の中には、初審・再審及び裁判所を通じて信用できない部分が相当に多く、又、相川はもと興人労組の中央執行委員や八代支部の執行委員等を歴任したこともあり(役員の点については乙第四九号証による。)、このように労組の役員までやつていて、「会社はテコ入は一切やつていない。」と断言する者が、右の釜賀の供述にあるような不当労働行為と目されるような言動をしたかどうかは、若干疑問ではあるけれども、「新労に来なければ会社を辞めて貰いたいと思う。辞職願の用紙は勤労にある。」とまで極言したかどうかはともかく六月一四日の釜賀との対談の中で、相川が参加人組合の幹部の行動を批判したことがあり(乙第四九号証)、又同日午後一二時前後頃、相川の妻悦子が、「あなたも良く考えなさいよ。」と釜賀に云つたこともあり(乙第四九号証)、同月一五日の未明永松等が来ていた時、江後が釜賀に対して何か云いながら涙ぐんでいたことがあり(乙第四九号証、第一〇三号証。もつとも、釜賀によると、江後が泣いたのは帰る前に相川に「第二に来なければやめてもらうのが一番良い方法だ。」と云われたからであるということになつている(乙第四八号証)が、江後が涙ぐんでいたのは、まだ永松等が帰る前であつて、その頃は、相川は殆んど聞き役に廻つていたと見られるところで(乙第一〇三号証)、釜賀の供述では時間的先後関係の判然としない点がある。それとも江後は、二回も泣いたのであろうか。)、それに相川自身も「明日も集会に行かなければいかんのか。」と釜賀に聞いたことがあると供述している(乙第四九号証)点等からすれば、前掲釜賀の供述のとおりではないにしても、相川が釜賀に対し、参加人組合から脱退して新労の方に参加するように説得したものと認める(従つて、相川宏遠の供述の中にも多分に信用できない点がある。)のが相当であり、そのことは前記判示の相川の課長としての職務権限から見て、一応形式的には、監督的地位にある者ないし会社の利益を代表する者の不当労働行為に該当するものと見ることができる。
六 不当労働行為の成否
凡そ、現行法上救済命令の対象となり得る不当労働行為とは労働者の団結権を侵害し若しくは侵害の恐れのある使用者ないしはその利益代表者の全ての言動をいうのであつて、必ずしもその者に団結権侵害の意図の有ることを要するものではなく、また、その結果が団結権を現実に侵害するに至らなくても、少くともその言動が、行為者の認識の上に立つたもので、且つ、団結権侵害の方向に向けられていれば、不当労働行為の成立要件を充足するものというべきである。
しかしながら、成立要件に一応該当する言動であつても、言動のなされた当時の諸般の状況の下において、これを不当労働行為と評価して救済を与えると、却つて法の精神を逸脱する場合があることを否定することはできない。このような事由を不当労働行為成立の阻却事由と称することができよう。すなわち阻却事由とは、当該状況の下では、当該言動にいでた者の言動が客観的に観察してこれを不当労働行為と評価しない方が、市民法上も社会法上も法の目的とする具体的正義に合致すると考えるに足りる客観的原因事実である。例えば、相手方が法一般に通ずる信義則に違反して、当該言動にいでた者がそのような言動にいでることを挑発し、或いは詐術、欺計を用いた場合の如きは右にいう阻却事由であり、また、一般市民としての言論の自由の保障上というようなことではなく、市民としての相手方との特種な身分関係或いは社会的友交関係から、当該言動にいでた者が労働者の団結権破壊等の意思なくしてその言動に及び、かつ、そのことが一般社会人を標準としてその言動にいでないことを期待することができない場合の如きは、右にいう阻却事由であるといえよう。
このような観点から相川の本件行為を考えてみよう。
前段認定の六月一四日から一五日にかけての一連の出来事や(イ)・(ロ)・(ハ)・(ニ)として説示したところを総合すると、相川の右の不当労働行為と目される発言は、釜賀とお互いに原告会社の非難と弁護をくりかえし、或いは参加人組合の幹部を批判したりして激論を斗かわしている間になされたものであつて、その議論自体の不当性はそれ程大きく評価すべきものではないと考えられるところ、本件の場合においては、相川が積極的に釜賀を呼び寄せたというよりも、六月一四日午後二時頃の電話があつたことによつて、相川が迎えに行く破目になつたもので、むしろ釜賀の方から飛び込んで来たものと考えられるのみならず釜賀の言動の中には、江後を呼んでもらつたり、或いは永松等を呼んでもらつたりして、不当労働行為を行わせようとする意図すら窺える。その上、釜賀の行動の中には、もしかすると、参加人組合の意志が働いていたのではないかという疑念の生ずる余地もある。そうすると釜賀の行為は、信義則上、相川の言動が不当労働行為を構成するかどうかという評価の関係では、消極的な作用を営むものであり、さきにのべた阻却事由が存在すると見ざるを得ないこととなり、結局実質的には、相川の当夜の言動を不当労働行為であると評価することは困難であるといわなければならない。
さらに、釜賀は、原告会社の採用試験に一度落ちたことがあつたが、幸い相川の尽力によつて補充採用されたものであり、相川の希望によつて相川の身近かな所である原液課工務室に働いていた唯一人の女性であつたことや、相川が釜賀に頼まれてその身元保証人となつていたこと(乙第四九号証)、釜賀は、入社後あまり間がなかつたのに、六月一四日までに何回か相川課長宅を訪れていること、即ち昭和三七年一月二〇日頃就職依頼で、同年三月二四日頃送別会の二次会で、同年四月四日頃保証人依頼の件で、同年五月一四日頃香奠返しの件で(この香奠返しの件は釜賀の否定するところであるけれども、この点に関する証人中川ヤツノの証言は、被告委員会における相川悦子の供述と対比して信用できない。)、その外、相川の依頼によつて少くとも一回行つていること(乙第八九ないし九三号証、第九九号証)等に徴すれば、相川と釜賀の関係を、被告委員会の主張するように、単なる課長と課員の間柄以上に出でないものであつたとは云い切れない点があり、又前記認定のとおり「僕は、身元保証人であつて君についても責任があるからこういう話をしているんだ。」という身元保証人としての立場からと目される発言があつたことも判然としており、この発言や、「君が第一組合に残つてそんなにつとめていても、他の人達は変なことを云う。」等という言葉が、自分の部下の若い未婚の女性に対する或る種の思いやりからとも受け取れる一面があると見ることができるのであつて、この点もさきにのべた阻却事由というべきである。
以上の点から、相川の行為の不当労働行為性は、これを否定すべきものであると解するのが相当である。
果して、判示のとおりであるとするならば、被告委員会は、事実認定上重大な点における誤認の疑があり、ひいては法律適用についての判断を誤つたものといわなければならない。従つて、本件において、相川の言動を不当労働行為であるとして救済を与えた地労委の命令に対する原告会社の再審査申立を棄却した被告委員会の命令は、結局違法なものというべく、これが取消を求める原告会社の本訴請求は、理由があるから、これを正当として認容すべきものである。
なお、原告会社は、本訴において、被告委員会のした再審命令の取消と共に、初審地労委のした救済命令の取消をも求めているけれども、初審命令を維持した上級行政庁の再審命令が違法として取り消され、且つ、その取消理由がそのまま初審命令にもあてはまるものである以上、原告としては、再審命令と共に初審命令の取消を求める法律上の必要ないし利益を有しないものといわなければならないのみならず、初審命令の取消については、当該命令を発した態本地方労働委員会を被告としていないのであるから、原告会社が、本件訴訟で初審命令の取消を求めている部分は、正当な当事者でない者を相手方とするもので、しかも、訴の利益を欠くものであつて、結局不適法なものであり、却下を免れない。
よつて、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法第七条民事訴訟法第八九条第九二条第九四条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官 西山要 吉永順作 瀬戸正義)
(別紙(一))
主文
一、被申立人は被申立人八代工場正門及び西門附近の備付掲示板に、本命令書交付後三日以内に向う二週間、下記の陳謝文(縦八〇糎、横一〇〇糎の杉板に墨書)を掲示しなければならない。
陳謝文
昭和三七年六月一四日午後九時頃、原液課長相川宏遠が同課員釜賀ヤツノを同課長宅に同行し、同宅において翌一五日午前六時頃までの間に同人に対し、興国人絹パルプ八代労働組合に加入するよう説得して紙パ労連興国人絹パルプ労働組合八代支部の弱体化を企図したことは、労働組合法第七条第三号に該当する違反行為として遺憾なことでありました。
ここに深く陳謝の意を表明し、今後同支部の運営につき一切支配介入を致しません。
年 月 日
興国人絹パルプ株式会社
代表取締役 西山雄一
紙パ労連興国人絹パルプ労働組合八代支部
支部長 副島郁朗殿
(別紙(二))
命令書
(中労委昭和三八年(不再)第一八号 昭和四一年三月一六日 命令)
申立人 興国人絹パルプ株式会社
被申立人 全国紙パルプ産業労働組合連合会 興国人絹パルプ労働組合八代支部
主文
本件再審査申立てを棄却する。
理由
第一当委員会の認定した事実
1 当事者
(1) 再審査申立人興国人絹パルプ株式会社(以下「会社」という。)は、肩書地に本社を、大阪市に支店を、富山市、吉原市、佐伯市および八代市に支社および工場をおいて、パルプ、紙、化繊等の製造および販売を営み、従業員数は、約三、四〇〇名(昭和三七年七月現在)である。
八代工場は、従業員数約一、三五〇名(昭和三七年七月現在)で、スフ綿、セロフアン原料のビスコースを製造している。
(2) 再審査被申立人全国紙パルプ産業労働組合連合会興国人絹パルプ労働組合八代支部(以下「八代支部」という。)は、昭和二二年三月八代工場の従業員約八〇〇名をもつて結成され、その後本社、富山工場、富士工場および佐伯工場の各労働組合とともに紙パ労連興国人絹パルプ労働組合(以下「興人労組」という。)を結成し、その八代支部となつたもので、組合員数は、後記の八代支部の分裂以前で約一、三〇〇名、分裂後の昭和三七年七月現在二九一名である。
2 釜賀ヤツノの入社と相川宏遠
(1) 釜賀ヤツノ(結婚後中川姓を名のる。以下「釜賀」という。)は、高校卒業に際し義兄江後譲の紹介で相川宏遠に就職のあつせんを依頼したところ、その尽力によつて昭和三七年二月五日からアルバイトとして雇い入れられ、八代工場の原液課工務室に勤務していたが、同年三月に高校を卒業し、同年四月一日付で社員として採用されることとなつた。当時原液課長であつた相川は、釜賀の依頼により同人の身元保証人になつた。その後、釜賀は、昭和三八年八月二一日付で原液課から業務課に配置替えになり、現在に至つている。
釜賀は、正式採用と同時に八代支部に加入し、後記昭和三七年の争議に参加したが、同支部の分裂後も支部の組合員としてとどまり、現在に至つている。
(2) 相川は、昭和三四年一〇月以降八代工場の原液課長の職にあり、昭和三八年一月レーヨン事業部付に転じた。昭和三七年六月当時原液課は課員二五〇名で、同課工務室には二〇名が配属されていた。
しかして、八代工場における課長は、人事に関しては三級職以下の課内異動を決定する権限を有するほか、四級職以上の課内異動、および課員の課外への異動、課員の昇進、賞罰について部長に提案し、また課員の人事考課を行なうほか、部内の調整に参画している。
また、相川は、原液課長在職中八代工場と八代支部との間で行なわれた団体交渉のうち、原液課の業務に関連した事項が議題となつた団体交渉には一〇回ばかり出席している。
3 昭和三七年春闘と興人労組の分裂について
(1) 昭和三七年三月二日興人労組は、賃上げ一律六、〇〇〇円、年間一時金等七項目にわたる要求をしたところ、会社は、同月二七日組合員一人平均一、六三六円増(会社計算)などの回答をした。興人労組は、これを不満として翌二八日第一波全面二四時間ストに突入し、以後全面スト、部分スト、時限スト、時間外拒否などの争議行為を反復し、五月一八日からは無期限ストを実施するに至つた。
会社は、同年六月一一日八代工場のロツクアウトを行なつたが、これより先六月九日には佐伯工場にロツクアウトを行なつていた。
(2) 六月一〇日から一一日にかけて興人労組富山支部、同本社支部、同富士支部が興人労組から脱退し、また同佐伯支部の大部分の組合員も脱退し、それぞれ別の労働組合を結成した。
ついで、六月一二日八代支部では、約七〇〇名が同支部を脱退して、興国人絹八代労働組合(以下「新労」という。)が結成され、昭和三七年七月現在で八代支部の組合員数は二九一名に減少し、新労は組合員数一、〇〇〇名を越すに至つた。
なお、六月一二日の分裂当時原液課では課員二五〇名のうち新労組合員は一三六名であり、そのほかに約四〇名が新労加入の意思をもつていたが、原液課工務室では二〇名中八代支部にとどまつていたのは、釜賀一名で、他は全員新労に加入した。
(3) しかして、昭和三七年六月一〇日富山支部が興人労組を脱退するや、会社は声明を発し、その中で「この段階に於ける会社の態度としては力による要求獲得のみを目的とし、既に統制力を失つた現中斗は会社の交渉相手としては不適格であることを断定せざるを得ない・・・」と述べ、また、同月一二日八代支部において大量の組合脱退が起るや、同日工場長名で声明を発し、その中で「八代工場においても良識ある従業員が結集して、本日興国人絹パルプ八代労働組合が新しく結成されたことは誠に喜びに堪えない。会社は新しく結成された興国人絹パルプ八代労働組合を承認する・・・」と述べている。
(4) 新労の結成後、直ちに八代工場長田川知昭と新労の交渉が行なわれ、新労の承認、労働協約の締結、就労等について協定書を締結し、六月一三日午前五時に新労の組合員は工場内に籠城、就労するに至つた。
一方、八代支部は、六月一三日に無期限ストを解除したが、新労からの申入れもあつて、会社はロツクアウトを解除せず、同月一五日八代工場長、新労執行委員長、八代支部長の三者により、ロツクアウト解除に当つての申合書を締結したうえ一六日午前一〇時ロツクアウトを解除した。その後六月一九日までは各職場毎に懇談会を開き、就労の準備をしたうえ、八代支部の組合員が実質的に就労したのは、同月二〇日すぎであつた。
4 昭和三七年六月一四日夜の相川の行為
(1) 前記のとおり昭和三七年六月一三日から新労組合員の工場内籠城、就労がなされ、相川は、生産再開の準備に忙殺されていた。
翌一四日午後六時前相川は帰宅した。その後沖田義昭(工務室工務主任、新労)が午後七時頃相川宅に来た。沖田は、相川に依頼されて釜賀を迎えに行つたが、あまり時間が長くなるので、相川はタクシーで午後九時前頃釜賀宅に行つたところ、釜賀と沖田は近くの路上で話をしていると告げられた。相川は、両名に出会い、釜賀だけを同車させて自宅に連れ帰つた。
(2) 相川は、午後九時すぎから自宅応接間で釜賀と対談したが、その内容は、組合の分裂に関連した問題に終始し、会社がこの分裂に関与しているか否かについて両名の間にかなり論議が交わされて、相川から組合のあり方、組合幹部の批判、非難がなされ、ついには相川は、釜賀に対して「新入社員はみな新労になる。第一組合は自滅してゆく。そんなところにいる必要はない。残つていたら会社にもおれなくなる。新労に入らなければやめてほしい。」などと言つて、新労に加入するよう説得し、夜半一二時をすぎるに至つた。この頃、相川の妻もしばしば両名と同席していたが、同女は、釜賀に対して「あなたもよく考えなさいよ。」などと言つている。
(3) 午後一二時すぎ勤労課からと名のつて釜賀の所在をたしかめる電話があり、相川がいない旨を答えたので、相川と釜賀との間でしばらくやりとりがあつたのち、釜賀は、江後(前記のとおり釜賀の義兄、新労)および原液課員に会いたいと言つたので、相川は、籠城中の原液課員四名を指名して同人宅に呼んだ。翌一五日午前二時すぎ原液課員、ついで江後が相川宅に到着し、釜賀の質問で原液課員から分裂問題、新労等について各自の見解が述べられたが、江後は釜賀に対して「こんなに心配してくれているのに、あんたもよく考えなさいよ。」「お前はわけがわからん。」などと言つた。午前四時頃原液課員らは帰り、釜賀は、江後とともにあとに残つたが、江後は涙ぐんで「妹の責任は僕にあるので、妹より僕がやめます。」などといつている。午前六時頃になり、釜賀が「今日一日考えさせてくれ。」と言つたので、相川は、自動車を呼び帰宅させた。
5 相川に対する会社の処分
争議解決後の昭和三七年七月八日、相川の釜賀に対する本件行為が新聞に報道されたので、相川は、八代工場長からその報告を求められた。会社は、相川を説諭処分に付し、相川は、会社に対して始末書を提出した。
以上の事実が認められる。
第二当委員会の判断
会社は、相川の釜賀に対する行為は、会社の職責を利用した組合に対する介入行為に該当し、会社に帰責せしむべきであるとの初審判断を争い、
(1) 相川は、人事労務に関し高度の支配権をもたず、会社の利益代表者でない、
(2) 相川は、釜賀に自宅に来るよう連絡していない、
(3) 相川は、釜賀を長時間自宅にとどめ、新労加入を説得したものではない、
(4) 当時新旧労組は、互に勢力拡張のため緊張した関係になかつた、
(5) 相川は、釜賀に新労に入らなければやめてほしいなどと言つていない、
などの諸事実について、初審命令はいずれも誤認し、その結果相川の行為を不当労働行為と判断したものであると主張し、また、たとえ相川の行為が不当労働行為に該当するとしても、陳謝文の掲示を命じていることは、その救済の限度を超えたものであると主張する。
一方、組合は、初審の事実認定および判断に誤りはないと主張する。
1 相川の会社における地位について
相川の原液課長としての職務権限について、会社は、人事労務に関する高度の権限を一工場課長に与えたことはないし、この程度の権限を高度の支配権とは言えないと主張する。
なるほど、高度の支配権を有していたか否か程度の問題はあるにしても、原液課長としての相川は、
<1> 課員二五〇名を直接指揮監督し、
<2> その人事に関しては、三級職以下の課内異動を決定する権限を有するほか、四級職以上の課内異動、および課員の課外への異動、昇進、賞罰について部長に提案し、また、課員の人事考課を行なうほか部内の調整に参画していた、
<3> 部課長会議のメンバーであり、
<4> 必要に応じ、八代支部との団体交渉には工場側交渉委員としても出席していた、
のであるから、原液課長としての相川が労働組合法第二条但書第一号に規定する会社の利益を代表する者に該当することは明らかであり、初審判断に誤りはない。
2 相川の行為と支配介入の成否について
昭和三七年六月一四日夜の相川の行為については、前記第一の4認定のとおりである。
(1) <1> 会社は、相川は釜賀に自宅に来るよう連絡した事実はないと主張する。
しかしながら、相川は、自らタクシーで釜賀宅まで迎えに行つていることからみても、釜賀が相川を訪ねたというようなものではない。従つて、釜賀が相川を訪れたという点に関する相川の説明は納得し難い。
<2> また、会社は、相川の行為は相川が釜賀の保証人としての個人的な善意にいでた行為であると主張する。
なるほど、相川が釜賀の保証人としての立場から釜賀に対し、適切な配慮を示すことはありうることではある。
しかしながら、相川と釜賀が課長と課員の間柄以上に個人的に親密な関係にあつたものと認めることはできないし、相川が保証人の立場から忠告ないし助言したものであるといかに説明しようとも、事は組合問題だけについてなのであるから、相川が課長としての立場から釜賀を説得したものと認めざるをえないのである。
<3> しかして、(イ)当時、工務室内で釜賀一人八代支部にとどまつていたこと、(ロ)スト解除による就労を目前にした時期であつたこと、(ハ)相川は、就労後の釜賀の立場を考慮し、釜賀も新労に加入した方がよいと考えていたことなどからみて、相川が釜賀に新労加入を勧める機会を作つたものと認めざるをえない。
(2) 会社は、相川は釜賀に対し新労に入らなければやめてほしいなどと言つていないと主張する。
しかしながら、
<1> 当夜の話題は、組合問題に終始していること、
<2> 上記(1)の<3>のとおり、相川は釜賀も新労に加入することがよいと考えていたうえでのことであること、
<3> 釜賀が八代支部組合員としての立場から、会社の態度、職制の動き、新労組合員の動きなどを質問したのに対し、相川は、それぞれの問題について説明し、さらに八代支部組合役員を個別に非難していること、
<4> 相川の妻も釜賀に対し、あなたもよく考えなさいなど言つていること、
<5> 江後らが来宅してからは、新労組合員が釜賀一人を中に組合問題につき意見を交しており、ついには江後が釜賀の態度につき涙まで流していること、
<6> 以上の事実からみて、相川に前記第一の4の(2)認定のごとき発言のあつたことは認めざるをえない。
(3) 釜賀が相川宅に六月一四日午後九時すぎから翌一五日午前六時頃までいたことは争いがない。会社は、釜賀が長時間いたのは釜賀の責任であると主張する。
なるほど、釜賀の態度は終始八代支部の組合員としての立場を崩さず、むしろ相川がいろいろ細かい問題についていちいち説明をしたことを認めざるをえず、また、江後および沖田らの来宅を求めたのは釜賀であつたことも認められる。しかしながら、課長の自宅に課員たる女子一名を九時間に及んで徹夜で在宅させたことを釜賀の責任であるということはできない。
(4) 会社は、当時新旧労組が互いに勢力拡張のため緊張していたというような関係になかつたと主張する。
なるほど、昭和三七年六月一四日頃にはほぼ両組合の勢力関係が落ち着き、その後の異動は微々たるものであつたとしても、当時新労約一、〇〇〇名のうち約三〇〇名については新労が加入を認めるか否かを審査中であつたのであり、両組合の勢力関係が固定化していたものでなく、いわんや分裂直後の時期に当つて両組合が勢力拡張のため緊張していなかつたとすること自体会社の主張に無理がある。
(5) 以上(1)、(2)、(3)および(4)のとおり会社の主張には理由がないばかりでなく、
<1> 組合分裂と新労結成について会社は、新労を歓迎する趣旨の声明を発していること、
<2> 相川も、興人労組のあり方を批判し、新労の結成に好意をもつていたこと、
<3> 組合分裂、スト解除と就労を目前にした時期にあつて、相川は工務室職場の組合関係からみて釜賀も新労に加入させることが望ましいと考えていたこと、
などの諸事情からみて、「相川の釜賀に対する言動は、同人の職制上の地位をはなれた単なる身元保証人としての立場からの配慮に基づく単純なる善意行為であつたとは認められず、同人が会社の原液課長としての地位を利用して、その部下である釜賀に対し八代支部からの脱退を迫まり、組合の弱体化を図つたものといわざるをえない。」との初審判断に誤りはない。
しかして、釜賀がその後も八代支部組合員としてとどまつているからといつて、上記判断を左右するものでないことはいうまでもない。
3 相川の行為と会社との関係の問題その他について会社は、相川の行為は会社の関知しないところで会社に責任はないと主張する。
しかしながら、相川の行為が単なる個人的善意にいでたものではなく、上記第二の2の(5)判断のとおり、相川の行為は、新労を歓迎する会社の意に副う行為であると同時に相川が課長としての立場から釜賀を新労に加入させるべく説得したものであり、また、相川が会社の利益代表者の地位にあることは、前記第二の1判断のとおりである。従つて、相川の行為については、当然会社に帰責さるべきである。
また、会社は、本件初審救済命令は事案の内容からみて救済の限度を超えたものであると主張する。
しかしながら、本件が相川一人の行為をめぐる問題であるからといつて、上記諸事情のもとになされた相川の行為を軽視できないし、その他初審命令の内容を変更するなんらの必要も認められないのである。
以上のとおり、本件再審査申立てには理由がない。
よつて、労働組合法第二五条、同第二七条および労働委員会規則第五五条を適用し、主文のとおり命令する。